幕府は寛永16年(1639)にポルトガル船の入港を禁止し、2年後オランダ商館を長崎の出島に移して、いわゆる鎖国の形ができあがります。以降は中国とオランダのみを対象にした通商と、朝鮮・琉球を相手とした通信という外交だけが行われました。海外情報はオランダ商館長から幕府への提出が義務付けられた「オランダ風説書」に頼るだけで、しかも機密扱いのため市中に出回る物ではありませんでした。しかし海に囲まれた日本では漂流してきた異国船との接触もありました。安永9年(1780)には中国船が千倉沖へ漂着したことがあり、そのときの関係資料が房総に残されています。