文化7年(1810)から文政3年(1820)まで三浦半島を中心に相模の警備を担当した会津藩(福島県会津若松市)が、房総の警備を担当したのは弘化4年(1847)2月で、上総と安房の海岸警備を担当していた忍藩の負担を軽減し、警備力を拡充するために富津と竹ヶ岡の陣屋と台場を引き継いで上総海岸部の警備に当たりました。支配地域は上総国天羽・周准郡と安房国平郡で1万5千石77か村、嘉永3年(1850)に上総国望陀・周准郡で18か村6500石が加増されています。嘉永6年(1853)のペリー来航による警備再編で筑後柳河藩(福岡県)に引継ぎ、新造された品川台場の警衛に回るまで、7年間担当しました。