18世紀の後半になるとロシアが日本との通商を求めて蝦夷地へ南下してきます。1790年代にラクスマンやレザノフが幕府との交渉を試みたことから、幕府は外国への対応という問題に直面し、海岸警備に着手するため、老中松平定信の主導で東京湾の近海沿岸の巡見を実施します。さらに19世紀に入るとオランダの植民地に触手を伸ばしていたイギリスの船が頻繁に来航し、各地で事件を起こすようになります。東京湾に最初に来た異国船も文政元年(1818)のイギリス船でした。船員の上陸や家畜略奪などの事件がおきると、幕府は文政8年(1825)に異国船の打払い方針を明確に打ち出します。天保8年(1837)には漂流民を護送してきた米国モリソン号に砲撃して退去させてしまいました。しかし中国がアヘン戦争でイギリスに敗北した衝撃から、天保13年(1842)、幕府は異国船に対して薪炭給与の穏便方針に変更します。
長く鎖国が続いた中で、漂着ではなく異国船から主体的に房総へ上陸してきた事件が、元文4年(1739)に起こりました。日本に関心を強めていたロシアが組織した4隻の探検隊のうち、はぐれた1隻が天津(鴨川市)の沖合いに停泊し、乗員8人が上陸して水を貰い、村人たちと数時間の交流をしています。この来航が、幕府がロシアの存在を公的に認識した最初であるといいます。
寛政4年(1792)9月になると、大黒屋光太夫ら漂流民を届けに根室へ現れたロシア使節のラクスマンが、通商交渉のために江戸へ向うという情報を得た老中松平定信は、使節を函館に回航させ、その間に勘定奉行久世丹後守を江戸近海の沿岸巡視に出し、自らも巡視して海岸の警備体制の構築を図りました。東京湾の海岸警備に着手したはじめです。