江戸近海の見分

 ラクスマンの渡来を契機に、老中松平定信は東京湾が無防備であったことを認識し、寛政5年に自らも沿岸見分を実行しましたが、見分中に老中退任を余儀なくされると、日本の海防は蝦夷地の警衛が主体となります。ところが文化3、4年(1806、1807)にロシアが蝦夷地を襲撃して緊張が高まったことから、文化4年に東京湾の湾口を中心に海岸見分が再開され、翌年には台場の築造地を見定める巡見が実施されました。そして文化7年(1810)の会津・白河藩による東京湾の海防が始まります。

 その後もたびたび相模・伊豆・安房・上総などの江戸近海の沿岸巡視を実施し、防備体制の変更が行われますが、それは東京湾へ侵入してきた異国船に衝撃を受けるたびの対応でした。漂流民を返還に来た天保8年(1837)の米国モリソン号に対する砲撃事件、弘化3年(1846)に通商を要求してきた米国ビットル艦隊の浦賀来航、嘉永2年(1849)に浦賀と下田で測量をしていった英国マリナー号来航、そして嘉永6年(1853)の米国ペリー艦隊の浦賀来航です。

御目付御巡見入用割合取立帳(左)御目付御見分御通行仕方写(中)御役人御休宿入用書上帳(右)
御目付御巡見入用割合取立帳(左)
御目付御見分御通行仕方写(中)
御役人御休宿入用書上帳(右)