アメリカ捕鯨船マンハタン号の渡来

 弘化2年(1845)2月、日本人漂流民22名を乗せたアメリカのマンハタン号という捕鯨船が房総沖へ姿を現しました。

 下の絵巻は館山市内に伝来したもので、異人や異国船、日本人の漂流地域、日本の警備役人たちの旗印などの絵のほか、日本人たちが漂流した事情をはじめ、東京湾へ進入するマンハタン号のことを浦賀番所へ知らせに走る漂流民の代表者の動きや警備役人たちの対応など、浦賀番所で役人が事情聴取した内容が記録されています。

 この事件に関しては、いくつかの記録が残されていますが、この渡来記録をまとめたのは、浦賀に詰めていた下田廻船方(浦賀奉行所支配の下田にあった浦方御用所)の役人臼井正蔵という人物です。この年の5月になって事件に対応した役人の目線であらましをまとめたもので、翌年にアメリカのビットルが来航した際も記録を残しています。

 前年暮に徳島を出航した11人乗りの船が紀伊半島沖で難破、小笠原諸島の鳥島へ漂着していたところ、約40日後にマンハタン号に救助されます。日本へ向う途中で四日間漂流していた11人乗りの別の船も救助して、江戸を目指しました。ところが房総半島へ近づくと狼煙が上って陸上での緊張感が船に伝わります。漂流した日本人が乗っていることを浦賀番所へ報告するため、2人の漂流日本人が守谷村(勝浦市)へ上陸し、同じ日の夕方にも朝夷地域で2人が上陸して、それぞれ地元役人や忍藩役人に付添われて、浦賀奉行所へ出頭しました。

 奉行所では警備担当藩に連絡して、陣屋や台場の警備を固め、警戒のために船を出しますが、2月下旬に異国船は北方のカムチャッカまで流され、再度東京湾口へ姿を現したのは3月10日。そのときは1日間館山湾の高之島へ船掛りしています。その後700艘を超える船に囲まれて浦賀へ入り、浦賀奉行の尽力で漂流民たちは幕府の方針通り長崎へ廻されることなく浦賀で下船。日本へ戻ることが出来ました。マンハタン号は水や食料・燃料を与えられて帰帆したのです。

 この事件があった年に生れた六軒町(館山市北条)の高山恒三郎は、親からマンハタン号が館山湾に入港した際の話を聞かされています<資料紹介「可咲翁摘草集 第一巻52項>。館山湾に入った異国船に小舟で近付いた人たちがいて、パンと酒を貰って帰ってきたものの、毒を心配して捨ててしまったとか、マンハタン号は幕府から鶏と大根を貰って帰ったなどの話が残されていました。不安より興味のほうが強かったようです。

米国捕鯨船マンハタン号浦賀渡来一件<右:頭書 左:船員図> 弘化2年(1845年)
米国捕鯨船マンハタン号浦賀渡来一件
<右:頭書 左:船員図> 弘化2年(1845) 個人蔵