東京湾で海防対策が取られたのは、老中松平定信による寛政5年(1793)の沿岸巡視からで、文化7年(1810)に会津藩と白河藩がそれぞれ、相州側と房総側の警備を命じられ、現地でそれぞれ3万石余の所領を与えられて警備体制が具体化します。会津藩は三浦半島の三崎、平根山、鴨居の陣屋を拠点に周辺に砲台を築き、白河藩は房総南部の百首、波佐間、白子の陣屋を拠点に台場を築いて警備にあたりました。最前線が安房洲崎と城ケ島の安房崎を結ぶラインで、警備の主眼は上総富津岬と三浦半島観音崎を結ぶラインの南側で進入を阻止する体制でした。
その間に東京湾口への異国船渡来は現実のものとなり、イギリス船の浦賀来航に接します。しかし文化10年(1813)にロシアと和睦して以降は緊張感が薄れ、イギリス船の東京湾来航や常陸・薩摩での上陸事件が起こるなか、文政3年(1820)には相州を浦賀奉行所の所管に、文政6年(1823)には房総を幕府代官の所管にして警備を縮小しながら、異国船打ち払いという強硬策が基本姿勢となりました。天保11年(1840)にアヘン戦争で清国敗北の情報を得ると、幕府は海防政策を転換し、打ち払い方針を撤回しつつも再度警備を強化するため、天保13年(1842)に相州側に川越藩、房総側に忍藩を配慮します。さらに浦賀へアメリカの軍艦が通商を求めてきた翌年の弘化4年(1847)には、相州側で彦根藩、房総側で会津藩に警備を分担させる御固(おかため)四家体制ができあがり、ペリーの来航を迎えるとこになりました。