(3)台場の設置

 東京湾での可防対策は、老中松平定信の指示による寛政55年(1793)の沿岸巡視に始まりましたが、文化5年(1808)の浦賀奉行岩本石見守、・鉄砲方井上左太夫等による台場候補地の視察によって台場取立てと大名の警衛配備が具体化しました。三浦半島の城ケ島と安房洲崎を結ぶラインで異国船を発見し臨検する警戒線とし、三浦半島観音崎と上総富津岬を結ぶラインを越えると打ち沈める最終ラインとして、その間の両岸に大砲を備えた台場が築かれ、それを守備する武士たちが拠点とする陣屋が設営されました。文化7年(1810)の会津藩・白河藩の警備にあたっては、三浦半島に観音崎・鶴崎・平根山・安房崎の台場、房総側では平夷山(竹岡)・洲崎の台場が置かれました。弘化4年(1847)に相州の川越藩・彦根藩と房総の忍藩・会津藩という四家による御固めの体制がつくられると、浦賀周辺を中心に三浦半島南部や房総半島南部に台場の新設が相次ぎました。しかし、安政5年(1858)に日米修好通商条約が締結されると、その年の内にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約を結び、岡山藩が担当していた房総南部の海防施設は廃止となりました。横浜が開港場となって、神奈川に新たな台場が築かれますが、房総半島は富津のみとなり、三浦半島も浦賀周辺に集約されました。

<三浦半島>

相州浦賀村図

相州浦賀村図

<房総半島>

砲台縮図絵巻<竹岡台場>  安政4年(1857年)

砲台縮図絵巻<竹岡台場>
安政4年(1857)

砲台縮図絵巻<大房台場>  安政4年(1857年)

砲台縮図絵巻<大房台場>
安政4年(1857)

砲台縮図絵巻<洲崎台場>  安政4年(1857年)

砲台縮図絵巻<洲崎台場>
安政4年(1857)