嘉永6年(1853)6月、ペリー率いるアメリカ軍艦が浦賀へ来航し、久里浜へ上陸して大統領の国書が渡されました。煙を上げる黒い船体や空砲の発射は人々に衝撃を与え、浦賀周辺には見物人も大勢集まりました。ペリーは富津岬を超えて内海まで乗り入れ、幕府に衝撃を与えて帰って行きました。江戸の危機を認識した幕府はこれ以降、富津岬・観音崎ラインの内海に防禦の重点を移し、江戸城前面の品川沖にも海上砲台を建設します。海防担当も房総では忍・会津藩から岡山・柳河藩に交代、相州側でも川越・彦根藩から熊本・萩藩へと交代します。翌年1月にペリーが国書の返答を求めて再来航し、日米和親条約の締結となりましたが、その年イギリス・ロシア、翌年オランダとも和親条約を次々と結ばれ鎖国は終りを迎えました。
「海防鎖録」巻四<革具足売り>
当館蔵