高皇産霊神社と善浄寺

高皇産霊神社と善浄寺 文化財マップ

高皇産霊(たかみむすび)神社の概要

高皇産霊(たかみむすび)神社

高皇産霊神社と善浄寺のある高井区は、約2,000年前の弥生時代の地震によって隆起した砂丘の上にあり、北条地区の中では一番古い砂丘で、地区の宮作(みやさく)・宿内(しゅくうち)には古墳時代の遺跡がある。高皇産霊神社の創立年代は不明であるが、神社は平久里(へぐり)川と滝川を望む砂丘の北の端に座している。現在は9月の鶴谷八幡宮の祭礼に参加しているが、明治初期に莫越山(なこしやま)神社の口添えにより出祭する機会を得たことから、莫越山神社の神輿と共に八幡宮まで渡御するようになった。祭神の高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は、天地開闢(てんちかいびゃく)の時に高天原(たかまがはら)に現れた神の一人で、天孫降臨の号令を出した神としても語られている。

善浄寺(ぜんじょうじ)の概要

善浄寺(ぜんじょうじ)

善浄寺は真言宗の寺で、無量山善浄寺と称し、小網寺の末寺で高皇産霊神社の別当寺であったと思われる。寺の創建年代等についてはよくわからないが、延宝3年(1675)の記録に「高井村善浄寺」と記載されている。本尊は木造地蔵菩薩立像で、鎌倉時代末から南北朝時代頃に作られたとみられている。弘法大師巡礼安房国八十八か所の22番霊場。さらに金剛宥性(ゆうしょう)が明治5年(1872)に開いた安房国百八か所地蔵巡りの107番目の札所である。奉納された御詠歌の扁額(へんがく)は初代後藤義光の作と言われている。別説に、江戸時代までは洲宮神社の別当寺として「善正寺=善浄寺」が洲宮にあったとされ、現在その跡地が洲宮神社の東約400mの山際にある。

(1)社号碑

平成16年(2004)9月に氏子中によって奉納された。文字は高井の書道家 川上良典(号:石舟)による。

(2)灯篭

(2)灯篭

高さ約2m40cmの灯篭が一対ある。「世話人林兵衛・平兵衛」によって「嘉永二酉年(1849)」の「八月吉祥日」に奉納された。台座には「館山楠見 石工長左衛門」の銘がある。長左衛門は田原長左衛門といい、現在の俵石材店の先祖である。

(3)鳥居

高皇産霊神社の氏子中によって平成2年(1990)12月に奉納され、北条の計(はかり)工務店によって施工された。

(4)幟立

昭和48年(1973)9月に氏子によって奉納された約2.30mの幟立(のぼりたて)がある。9月の祭礼で「高皇産霊神社 平成二十七年九月 氏子中」と書かれた長さ10m、巾1mの大きな幟を揚げ、神輿が出祭する。初日の午後2時頃、八幡海岸から榊・高張提灯を先頭に、天狗・太鼓・笛等で行列を組み、莫越山神社の神輿と共に八幡宮へ向かい、御仮屋に着座する。2日目は境内でもみ・さしをして高井へと帰る。高皇産霊神社は11基の神輿の内10番目の還御(かんぎょ)となる。

(5)御大典奉祝記念碑

1 昭和

昭和3年(1928)11月に在郷軍人会安房北条分会によって建立された記念碑と共に、2本のモミの木が奉納植樹された。枯れ残った一本は約100年が経ち、幹の太さが約2.17mにまで成長した。碑に並んで台の上に、嶺岡の蛇紋岩で作られた中世五輪塔の空風輪が乗っている。善浄寺にあった墓石の一部であろう。

2 平成

平成3年(1991)1月吉日に宮司・氏子総代以下14名が奉祝記念として建立した。

3 令和

表面は「令和御大典記念植樹」、裏面に「令和三年七月吉日」と刻まれ、碑の後ろに榊の若木が植樹されている。

(6)力石

昭和の御大典記念樹の碑の脇に、長さ80cm、巾35cmの玉子型の石がある。細く尖っている所に「三」の文字が残っている。重さ「三十貫」(112.5kg)と書かれていたのであろうか。祭礼の時などにこの石を持ち上げて力自慢をしたのであろう。

(7)手水鉢

中央に五七桐紋を付けた手水鉢がある。巾12.3cm、奥行63cm。右側面に大正8年(1919)8月に氏子中が奉納したと記されている。

(8)狛犬

社殿前に1対の狛犬がいる。高さは約2.50m。右の狛犬には「長須賀石匠吉田亀吉」、左の狛犬には、大正14年(1925)8月4日、地元の大工高木久平が82歳を記念して奉納したとの銘がある。

(9)善浄寺本堂

本堂の正面に明治5年(1872)の御詠歌の額がある。安房国百八か所地蔵巡りの107番目。御詠歌は「にごりなきこころの内は高井寺 やがて真如の月をやどさん」。額は初代後藤義光の作である。本堂の中には弘法大師巡礼安房国八十八か所の22番の御詠歌の額もある。「はるばるとのぼるたかひ(高井)の善浄寺 仏のちかひたのまぬハなし」。元文元年(1736)に根本(白浜)の智圓が願主として奉納した。

(10)歴代住職の墓

善浄寺の墓地の最前列に歴代住職の墓が3基並ぶ。左奥の墓は権大僧都法師頼淳(らいじゅん)のもので、側面に「大綱村又四郎産 字快明 行年三十五才 天保十一年(1840)七月十五日」とある。中央は明治42年(1908)に亡くなった法師以運、右端は大正8年(1919)に亡くなった法印以慧の墓である。

(11)門柱

門柱の内側に何かを取り付けた金具の跡がある。南条にある観音寺の門柱にはガス灯が取り付けられているので、善浄寺の門柱にも同じようにガス灯が取り付けられていたのではないかと思われる。

(12)石宮群

7基の石宮(山王様・山の神様・ろくしょう様・権現様・古峯神社・金毘羅大権現・弁天様)が町内から集められている。金毘羅大権現には台座に「講中」、左側面には「文久四甲子年(1864)三月十日」の文字がある。右側の石宮は古峯神社である。他の石宮は文字がないが、天明7年(1787)には当地区で御霊・山の神・権現・明神・弁財天が祀られていたことが記録にある。明神とは高皇産霊神社のことであろう。石宮の前にある手水鉢には右側面に「文政九戌年(1836)八月吉日」とあり、左側面には奉納者の「新蔵・義兵衛・重蔵・藤七」の4名の名が刻されている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
刑部昭一・山杉博子・岡田晃司(2024.3.19)
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