5.綴錦織曼荼羅発願

 虚籟の創作活動は、順風満帆。昭和13年(1938)、綴錦の丸帯「石橋の図」、14年綴錦打敷「白鷺の居る」を文展に出品。15年高島屋の委嘱で綴錦織壁掛「暁の富嶽」を制作。この作品は後日、外務大臣松岡洋右からドイツに贈呈されている。同年秋の皇紀紀元2600年奉祝紀念美術展にも綴錦織壁掛「天平の夢」を出品している。

 このように綴錦織作家としての虚籟の名声は高まり、第一人者としての地位も固まったが、そんな虚籟に立ち塞がったのが、昭和15年7月7日に交付された奢侈(しゃし)品等製造販売禁止令(贅沢禁止令)であった。

 戦争の暗雲が垂れ込め、国家総動員体制を目指した物資の配給制や言論統制が強化された状況の中で、絹織物一切が贅沢品として製造販売が禁止されたのである。

 虚籟は芸術保存の観点から特に綴錦織の制作を許可されたのであったが、彼は非常時において自分だけ特別扱いされる意味について自問自答した。

 その結果、国家や民族の利害を超えた全人類的な視野に立つ意識の改革。山川草木生きとし生けるもの全てを互いに認め尊ぶ、畏敬の気持ちが大切だと気づく。そして戦乱の中で、敵味方の区別なく総てに対する追悼と世界平和の祈りとして、大慈悲の現れである阿弥陀如来を中心にする一大浄土変相曼荼羅を綴錦織で制作しようと発願するのである。このとき虚籟は50歳であった。