略年譜
元号 | 年齢 | 内容 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
虚籟 | 秋野 | |||
明治23年 (1890) |
0 | 山形県鶴岡市旧大宝持村で誕生 | 生家は農家で9人兄弟の8子。本名順治 | |
明治39年 (1906) |
16 | 旧制庄内中学校2年生で退学 | 画家を目指して上京。アルバイトしながら中村不折に学びデッサンに励む | |
明治41年 (1908) |
0 | 大分県大分市で誕生 | 父は県立大分第一高等女学校の校長を長く務めた教育者、母方は代々松江藩家老職。8人兄弟の第5子 | |
大正3年 (1914) |
24 | 伝道活動に身を投ず | 新宗教「神生教壇」の宮崎虎之助と出会う | |
大正5年 (1916) |
26 | 托鉢・放浪の旅をする | 東京・千葉・茨城・福島・山形を巡る | |
大正6年 (1917) |
27 | 米相場の研究をする | 東京証券取引所理事長杉野喜精と出会う | |
大正10年 (1921) |
31 | 社会事業の手伝い | 賀川豊彦の知遇を得る | |
大正11年 (1922) |
32 | 大久保寿麿から綴錦を習う | 関西伝道中、京都上賀茂大久保家に50日滞在 | |
長女昌子死去 | ||||
大正11年秋 (1922) |
32 | 東京から埼玉県入間郡吉野村へ移転 | 桑の手入れ、芋畑の耕作、干魚の行商、綴織の小作を織る | |
大正12年 (1923) |
33 | 安房郡平群村に滞在中、関東大震災起こる。 | ||
兵庫県高砂に移転 | 「革新公論」の編集をする。この頃綴織作家への転身を考える | |||
大正13年 (1924) |
34 | 館山市北条に移転 | 友人中村有楽の薦めによる | |
大正14年 (1925) |
35 | 壁掛「芭蕉の図」日本工芸美術展覧会に出展入選 | ||
壁掛「水汲み」制作 | ||||
大正15年 (1926) |
18 | 秋野高等女学校卒業 | 卒業後お茶、お花、裁縫などを習う | |
36 | 東京日日新聞に高村光太郎の虚籟紹介記事掲載 | 6月1日付け | ||
昭和2年 (1927) |
37 | 壁掛「水のほとり」帝展で落選 | ||
昭和3年 (1928) |
38 | 壁掛「樹下情遊」帝展落選 | ||
昭和4年 (1929) |
21 | 安房郡丸山町豊田移転 | 父の定年退職に伴い、家族と父の生家に移る | |
昭和5年 (1930) |
40 | 壁掛「日まわり草」帝展入選 | 高村光太郎、芸術院会員津田信夫の薦め | |
昭和7年 (1932) |
42 | 壁掛「水辺」帝展入選 | 4ヶ月以上を制作にかける | |
昭和8年 (1933) |
43 | 壁掛「陶窯の図」帝展特選 | 制作に5ヶ月をかける。杉野喜精の援助により木曽犬山焼の窯を見学し構想を練る | |
壁掛「供養夫人」制作 | ||||
昭和9年 (1934) |
44 | 壁掛「牡丹の図」帝展入選 | ||
26 | 虚籟から綴織を習う | 汽車で館山北条に通う | ||
「鳳凰模様」商工省輸出貿易展へ出店し入選する | 岡田三郎助に批評を乞う | |||
昭和10年 (1935) |
45 | 東京都上目黒に移転 | ||
27 | テーブルセンターを上野美術協会展へ出展入選する | |||
昭和11年 (1936) |
46 | 「白孔雀の図」文展に出展 | 三曲衝立仕立て 昭和11年より文展無鑑査となる | |
28 | 助手として上目黒に移転する | |||
壁掛「花籠」春の帝展入選 | ||||
壁掛「フラミンゴの居る」秋の文展入選 | ||||
昭和12年 (1937) |
47 | 『順霊の跡』東京同文社刊行 | 自費出版し街角で配布する | |
29 | 牡丹模様のクッションを上野美術協会展へ出展入選する。綴錦織ハンドバックを上野実在美術工芸展へ出展入選する | |||
昭和13年 (1938) |
48 | 丸帯「石橋の図」文展出展 | ||
30 | テーブルセンター「海の幸」を商工省輸出貿易展へ出展入選する | |||
和装バッグ「瓜唐草文」制作 | ||||
昭和14年 (1939) |
49 | 打敷「白鷺の居る」文展出展 | (無鑑査) | |
打敷「唐獅子文」制作 | ||||
テーブルセンター「菱形幾何学文」制作 | ||||
昭和15年 (1940) |
50 | 壁掛「暁の富嶽」制作 | 後日、外務大臣よりドイツに贈呈 | |
綴錦曼陀羅謹作発願 | 二人の悲願とする | |||
壁掛「天平の夢」出展 | 皇紀紀元二千六百年奉祝記念美術展出展(無鑑査) | |||
32 | 壁掛「洋蘭のある綴錦壁掛」出展入選 | 皇紀紀元二千六百年奉祝記念美術展出展 | ||
綴錦織の研究のため当麻寺へ | 奈良・京都の古刹をまわる | |||
昭和15年ころ | 袈裟「鳳凰文」制作 | |||
昭和16年 (1941) |
51 | 33 | 壁掛「陶窯の図」ソウルで展示される | 李王朝美術館徳寿宮石造殿の開館記念として1年間展示される |
春「当麻曼陀羅一部・勢至菩薩像」の制作開始 | 蓮の研究家大賀一郎の依頼による。蓮糸と絹糸の混織。 | |||
昭和17年 (1942) |
52 | 34 | 「当麻曼陀羅一部・勢至菩薩像」完成 | 当麻寺へ奉納直前に遺失する |
「法隆寺金堂壁画脇侍観世音菩薩像」完成文展出展 | ||||
秋「聖観世音菩薩」文展出展 | ||||
「如意輪観世音菩薩像」塑像制作 | ||||
昭和17年ころ | 打敷「唐獅子文」制作 | |||
昭和18年 (1943) |
53 | 35 | 「曼陀羅一部・不動明王」制作。文展に出展 | 了賢寺に奉納される |
昭和18年ころ | 「龍神」「龍妃」制作 | |||
昭和19年 (1944) |
54 | 36 | 鶴岡に疎開する | 曲師町の鈴木医院に間借りする |
「阿弥陀如来像」制作 | ||||
昭和18年~19年 (1943) |
53 | 35 | 「釈迦如来・雲中菩薩・観世音菩薩像」等小品6尊像を制作 | うち4点を昭和19年6月満州国、中華民国、タイ、ビルマ大使に贈呈 |
昭和21年 (1946) |
56 | 38 | 「如意輪観世音」制作開始 | |
「阿弥陀如来像」制作 | ||||
昭和22年 (1947) |
57 | 39 | 「如意輪観世音」完成 | 鶴岡市般若寺で開眼供養のち、皇太后陛下に献上 |
掛軸「山神」制作 | ||||
昭和23年 (1948) |
58 | 40 | 「曼陀羅一部・飛天奏楽」完成 | マッカーサー元帥に贈呈 |
袱紗「葡萄葉文」制作 | ||||
昭和24年 (1949) |
59 | 41 | 百か寺巡礼の旅 | 鶴岡、千葉、東京、京都、大阪、兵庫、広島へ行脚する |
昭和26年 (1951) |
61 | 43 | 「中尊阿弥陀如来像」国連本部へ贈呈される | 3ヶ年の歳月をかける |
天澤寺の庫裏に移転 | ||||
「脇侍観世音菩薩」制作 | ||||
三曲衝立「白孔雀之図」完成 | 兵庫県姫路城迎賓館備付 | |||
昭和27年 (1952) |
62 | 44 | 館山市慈恩院に移転 | |
「脇侍勢至菩薩像」「一葉観世音菩薩像」制作 | ||||
「阿弥陀如来像」制作 | ||||
昭和28年 (1953) |
63 | 45 | 「天女」制作 | |
昭和29年 (1954) |
64 | 46 | 「脇侍観世音菩薩像」完成 | 栃木県満願寺に奉納 |
昭和32年 (1957) |
67 | 49 | 「脇侍勢至菩薩」完成 | 東京浅草寺に奉納 |
壁掛「水汲み夫人」制作 | ||||
昭和33年 (1958) |
68 | 50 | 虚籟・秋野館山市八幡区名誉市民になる | |
虚籟、館山市無形文化財第一号指定になる | ||||
昭和34年 (1959) |
69 | 51 | 脳卒中で倒れ、病臥する。闘病2年半を送る。 | |
昭和36年 (1961) |
71 | 53 | 壁掛「天平の春」完成 | |
昭和37年 (1962) |
72 | 54 | 壁掛「富貴花」制作 | |
昭和38年 (1963) |
73 | 55 | 12月26日 脳卒中が再発し、館山市で死去。 | 館山市八幡の区民共同墓地に埋葬される。後、山形県櫛引町天澤寺に改葬 |
昭和41年 (1966) |
58 | 和装バッグ「コプト文様・古代瓦文」制作 | ||
昭和45年ころ (1970) |
62 | 名古屋帯「鳳凰と牡丹文」制作 | ||
昭和48年 (1973) |
65 | 館山市無形文化財に指定される | ||
昭和50年ころ (1975) |
67 | 「牡丹」制作 | ||
昭和57年 (1982) |
74 | 千葉県無形文化財に指定される | ||
昭和58年 (1983) |
75 | 「瑞雲と唐草文」制作 | ||
昭和62年 (1987) |
79 | 「虚籟曼陀羅糸塚」建立 | 山形県櫛引町天澤寺 | |
平成4 (1992)年 |
84 | 虚籟図録刊行会発足 | ||
平成6年 (1994) |
86 | 『順霊の綴錦織』刊行 | ||
平成8年 (1996) |
88 | 「遠藤虚籟と世界平和」開催 | 鶴岡市役所主催 | |
平成17年 (2005) |
97 | 館山市八幡に健在である | 館山市立博物館にて企画展開催 |