昭和26年(1951)、ニューヨークの国際連合本部に「綴錦織曼荼羅中尊阿弥陀如来像」が無事に納められ、ほっとするのもつかの間、風間家別邸(無量光苑)から立ち退かなくてはならなくなる。それに追い討ちをかけるように、ついに妻いく子が虚籟のもとを去ってしまう。行き場に困った虚籟の窮状を救ったのは、やはり天澤寺住職であった。虚籟と秋野は天澤寺の庫裏を借りて綴錦織の制作を続けることができたのである。
しかし翌27年1月、虚籟は風邪をこじらせて50日余病臥することになる。こうした健康上のことも考えて、暖かい房州館山に再度移ることにした。館山市内城山の麓にある慈恩院住職の好意にすがったのである。
暖かいのは気候だけでなく、館山病院院長穂坂興明、副院長川名正義など、人々も暖かく虚籟たちを迎え入れた。ここで、アメリカ海軍横須賀基地司令官マクマネス中将に贈る「一葉観世音菩薩像」を織り上げた。
その後、館山市八幡に工房を移し、いよいよ本格的に綴錦織制作に取りかかった。虚籟の持てる力を余すことなく発揮し、こぼれんばかりの色彩にあふれた、「脇侍観世音菩薩像」が見事完成するのであった。この像は、栃木県出流山満願寺に奉納されている。