敗戦後の混乱の中で、鶴岡の名族風間家の別邸「無量光苑」を綴錦織制作の工房として提供を受けた。これを機に、曼荼羅中尊阿弥陀如来の謹作にとりかかるのである。
さらに虚籟にはもう一つ夢があった、それはこの故郷鶴岡に綴錦織の技術を伝え残したいということであった。終戦の翌年、男女6名を集めて講習会を開くが、資金も、色糸の貯えもなかった。そのため秋野の大切に持っていた作品、最初の帝展入作作品「花籠」を売って金に換え、もう一つの文展入選作「フラミンゴの居る」をほぐして受講生用の色糸に使用したのである。自分の思い出の作品を手ずから解体する秋野の心中は察するに余りあるものがある。
長男哲雄が南方で戦死したこともあり、虚籟の家庭は崩壊寸前であった。秋野にとってもこの軋轢に巻き込まれ、心身ともに疲れ果てて、すっかり嫌になってしまい房州に帰ることも考えたという。
こんな虚籟たちの窮状を見かねた鶴岡の隣町にある天澤寺の住職が檀信徒を回り、後援会を作り、浄財をあつめて支援したのである。
こうした人々の善意に支えられて、昭和25年(1950)3月31日の払暁、「綴錦織曼荼羅中尊阿弥陀如来像」が完成したのである。このとき虚籟60歳、秋野42歳であった。
今は国登録有形文化財として有料公開されている。
虚籟と秋野は美しい庭園が見えるこの部屋(右写真)で綴錦織の制作に励んだという。
加藤清正公墓碑(山形県指定史跡)のある古刹。