虚籟は秋野に綴錦織を習うならばお稽古事でなく、展覧会へ出品をめざして織るように指導した。秋野は綴錦織に当初はそれほど強い関心があったわけではなかったというが、それでもまじめに通って熱心に学んだ。
勧められるまま、その年の秋に商工省輸出貿易展に「鳳凰模様」のテーブルセンターを出品したところ、みごと入選する。習い始めて半年という快挙であった。さらに制作に励み、翌昭和10年(1935)、新人作家の登竜門ともいうべき上野美術協会展に、貝を図案化したテーブルセンターを出品し連続入賞を果たした。
この年、過労で倒れた虚籟一家が東京に移ったため、秋野は自宅で絵を描き、時折上京しては虚籟の指導を受けるという生活を1年余り続けるのだが、その後昭和11年、虚籟から助手に乞われて上京することになる。
こうして秋野は虚籟の家に住み込み、その家族と生活を共にしながら、虚籟の仕事を手伝い、その合間に、自分の展覧会出品用の作品を織るという厳しい生活を始めた。
睡眠の時間を惜しんで制作に励んだ秋野は、その年の春、帝展に、紫陽花に鳥と魚を配した綴錦織壁掛「花籠」を出品し入選した。
さらに同年の秋の文展に綴錦織壁掛「フラミンゴの居る」を出品、これも入選した。秋野28歳。この連続入選を誰よりも喜んだのは、彼女の父であったという。
勢いに乗った秋野は、昭和12年春、上野美術協会展に牡丹模様のクッションを、同年秋には上野実在美術工芸展に綴錦織ハンドバッグを、13年の商工省輸出貿易展には魚をのせた皿をデザインした綴錦織「海の幸」テーブルセンターをそれぞれ出品して、いずれも入選を果たしている。
さらに15年秋に、東京都美術館で行われた皇紀紀元2600年奉祝記念美術展に、父が栽培していた洋蘭をモチーフに、「洋蘭のある綴錦壁掛」を出品して入選、好評を博すが、秋野はこの傑作を最後に展覧会に出品する作品の制作を封印してしまう。これ以降は、虚籟の世界平和祈願綴錦織曼荼羅制作という大事業の実現のため協力し、私を捨てて裏方に徹するのである。