初の公募展入選に意を強くした虚籟は「水のほとり」、「樹下情遊」と精力的に連続して制作。昭和5年(1930)に綴錦織壁掛「日わり草」が帝展に入選。4ヶ月以上もかけて織り上げた大作、綴錦織壁掛「水辺」も昭和7年の帝展に出品され連続入選を果たし、さらにそれに倍する大作「陶窯の図」を今度は5ヶ月かけて制作し、昭和8年の帝展に出品。みごと特選となったのである。昭和9年(1934)引き続き綴錦織壁掛「牡丹の図」を出品し入選するのであるが、過労で倒れたため、翌年、家族と共に安房北条から東京に引き上げることにした。
昭和11年に帝展が改組され文展となり、虚籟はその第1回文展に無鑑査招待として豪華な三曲衝立「白孔雀の図」を出品。それ以後文展無鑑査の資格を得るのである。
この「白孔雀の図」は家が買えるほどの値で売れたのであるが、虚籟はそれを全て奥州四百里の托鉢の記録である『順霊の跡』の自費出版の費用に当てて使い切ってしまったという。