【1】霊巖上人の生涯
 1.師資相承

 毎年除夜の鐘のテレビ中継がされる京都の浄土宗総本山知恩院の大洪鐘(こうしょう)(大釣鐘)や、その堂塔を建立したのが、房総を拠点に全国的に活躍した近世浄土宗の高僧・霊巖上人(れいがんしょうにん)であることはあまり知られていません。

 上人は諱(いみな)は霊巖、字(あざな)は松風、法号を檀蓮社霊巖雄譽松風(だんれんじゃれいがんおうよしょうふう)上人大和尚(以下霊巖と略称)と号します。

 霊巖は天文23年(1554)4月8日に、駿河国(静岡県)沼津で、今川家の一族、沼津土佐守氏勝の三男として生まれたとされ、幼名を友松といいます。しかし、霊巖が安房・上総・下総を故郷のようにして活躍していたためか、伝記の中には上総国佐貫の生まれで、父は里見氏と記すものもあります。

 友松は永禄7年(1564)2月15日、沼津浄蓮寺開山の増譽(ぞうよ)上人について剃髪(ていはつ)し、肇叡(じょうえい)と名づけられました。11歳の時のことです。やがて肇叡の非凡な才能を見抜いた師僧増譽は、檀林(だんりん)という当時の高僧が集まっている僧侶の学問所に入れることにします。

 こうして、永禄11年(1568)下総生実(おゆみ)の大巖寺(千葉市中央区)の開山道譽貞把(ていは)上人(以下道譽と略称)の門を叩いた肇叡は、新しい師僧の道譽から「霊智の生ずるところ、わが宗の柱礎となるべし」と、霊巖という名をもらいました。15歳のことです。

 天正2年(1574)、学問修行に励む21歳の霊巖は、余命残り少なくなった道譽より、五重、宗脈(しゅうみゃく)という大切な相伝(そうでん)、浄土宗の正流を伝えられます。

 大巖寺2世は、遺言により大勢の門下の中から兄弟子の安譽虎角(こかく)上人(以下安譽と略称)が継ぎました。再び霊巖は、安譽のもとで厳しい学問と修行を続けます。天正7年(1579)冬、26歳の霊巖に安譽は戒脈(かいみゃく)を授け、さらに門下に「霊巖はすでに学なりて、ほぼ仏祖(ぶっそ)の幽致(ゆうち)に通じたので、今より指南を乞うべし」と申し渡したので、大勢の学僧が霊巖の座下に学ぶことになりました。

 天正15年(1587)身体の衰えた安譽は、住持職を霊巖に譲与し、口決相承(くけつそうじょう)の密旨(みっし)、璽書印可(じしょいんか)を伝えて入寂(にゅうじゃく)します。

 こうして34歳で伝燈法師(でんとうほっし)として大巖寺第3世を継いだ霊巖の評判は高まるばかりでした。

 しかし天正18年(1590)、故あって大巖寺を辞して東海道に旅立ちます。一説には、徳川家康の仰せで開かれた報謝法門(ほうしゃほうもん)の席で争論があったためともいわれます。

 これには大勢の弟子たちも随いました。道々、布教をしながら人々の求めに応じて寺院を開き、廃寺を再興しました。天正19年(1591)、南都(奈良県)に永亀山肇叡院(えいきざんじょうえいいん)霊巖寺(現在の霊巖院)を建て、弟子の念譽廓無(ねんよかくむ)を第一座にしました。霊巖の評判は高まる一方で、村人の招きに応じて、山城国宇治の称故寺(しょうこじ)の本堂を建立したり、相楽瀧鼻(そうらくたきのはな)(京都府相楽郡精華町)に西光寺(さいこうじ)を創建するなど、このほか五畿内に19カ寺を開いたといわれています。

 文禄元年(1592)、徳川家康が九州名護屋に赴くために上洛し、伏見城に滞在していたときに、霊巖の活躍を聞き、直ちに城に霊巖を呼び、関東に帰るように説得します。文禄2年(1593)上意により再び大巖寺に戻った霊巖は、上総国五井の領主松平紀伊守家信の援助を受けて、大巖寺堂宇(どうう)造営の大工事に取り掛かります。慶長4年(1599)春、無事に大巖寺の堂塔は完成します。この年の8月、字(あざな)を松風(しょうふう)と定めます。