安房にやってきた霊巖は、旧知の豪譽九把(ごうよきゅうは)上人が住職をしていた、北条(館山市)の金台寺(こんたいじ)に落着いて、民衆教化に励みました。中央の無双の学匠の説法ということで、人々が雲集(うんじゅう)し、大変な賑わいだったそうです。安房の国主里見氏9代義康は、伯父に当たるという豪譽から、このことを聞き、大網一村一円に東の山を添えて、永世寺領として32石を寄進したので、ここに仏法山大網寺大巖院(ぶっぽうさんおおあみじだいがんいん)の仮の堂が造られました。
国主の勧めで、東條民部左衛門(みんぶさえもん)や、近藤九郎右衛門尉(くろううえもんのじょう)ら、家中の上席がみな霊巖に帰依(きえ)することになります。いまも近藤九郎右衛門尉が寄進した大巖院の寺号(じごう)扁額が伝来しています。後に天津山より材木を切り出して、諸堂も造営され、やがて15間と13間の大本堂が落成しました。この年50歳になった霊巖は、鎌倉より仏師を招き、等身の寿像(じゅぞう)(霊巖像)を作らせ、門弟への形見、末代永く念仏信者への結縁(けちえん)としたといいます。
慶長13年(1608)上総国五井の領主松平紀伊守家信は、霊巖を理安寺(りあんじ)(後の清昌院守永寺(しゅえいじ)の開山として請じました。大巖院に伝わる夫妻の授戒像(じゅかいぞう)の体内には、この年の11月の墨書があります。里見義康の跡を継いだ10代忠義も、2年後の慶長15年(1610)3月に、霊巖より円頓戒(えんどんかい)を授かり、その法礼として朱印をもって寺領を42石にしたといいます。
霊巖の徳を慕う上総国佐貫城の内藤佐馬助(さまのすけ)政長は、佐貫の善昌寺へ転住して欲しいと懇請しました。霊巖は仏法を広めるため、これを承諾し、名残を惜しむ安房の人々に別れを告げました。
元和元年(1615)には、上総国湊村(かずさのくにみなとむら)に湊済寺(そうさいじ)を建立。同国小糸市宿に三経寺(さんきょうじ)を、また姉ヶ崎の最頂寺(さいちょうじ)を改宗。下湯江に法巖寺(ほうがんじ)を起立(きりゅう)と、次々に寺院を再興、創建しています。
この年8月、宗祖円光大師法然(ほうねん)上人の遺跡(ゆいしゃく)・霊場の巡拝(じゅんぱい)を発願(ほつがん)し旅立ちました。この旅行の4年間に結縁(けちえん)の血脈(けちみゃく)は数万人に及び、30カ寺の寺院を興して、佐貫に帰ってきました。
この頃には諸候や旗本などで霊巖に帰依渇仰(きえかつごう)し、江戸へ招く人が多くなってきました。そのたびごとに房総から出かけて行って、説法をしていたのですが、茅場町の辺りに結んだ仮の草庵(そうあん)も、日増しに群集(ぐんしゅう)して狭くなってしまいました。それを何とかしようと、堀庄兵衛という人が、北続きの沼を旗本向井将監(しょうげん)から譲り受け、江戸における霊巖の伝道地にしようとしました。信者たちは手に手に土石を持ち寄って、先を争うように埋め立てたので、瞬く間に立派な平地になったといいます。こうしてできた東西1町余、南北2町余の敷地が、霊巖(岸)島の起こりです。現在の中央区新川1~2丁目にあたります。
元和7年(1621)、房総との交通の要所に、数百人容れることのできる仮屋が設けられたのが、有名な霊巖寺の草創となります。霊巖にはたくさんの弟子がいましたが、諸国に所化(しょけ)(学僧)を留めて置いていました。それを呼び集めるため、まず学寮を建てようと考えました。材木の寄付を呼びかけたところ、房総のそこかしこから、信者たちによる寄付の材木が大船に積まれ運ばれて来たそうです。こうして、寛永6年(1629)秋、本堂、諸堂、学寮建ち並ぶ霊巖寺が見事に完成し、新たに十八檀林の一つとして認められました。
れいがん橋(東京都中央区新川)