【3】霊巖上人所縁の人々
 1.嗣法の弟子たち 

 霊巖は、数多くの門弟を育成しました。その数は実に3000人をかぞえていたといわれています。安房の大巖院は、霊巖が自分で最初に開いた談義所(僧侶育成の学問所)でしたので、当然そこには房州出身の弟子も多かった思われます。

 『雄譽上人傳記』には霊巖の高弟と呼ばれる人が、「嗣法高弟名實(しほうこうていめいじつ)」として挙げられていますが、そこに安房出身者の名を見ることが出来ます。

(1)木蓮社公譽霊圓上人継風大和尚

98.千日念仏名号石塔
98.千日念仏名号石塔
金台寺
金台寺

 あるいは本蓮社と記す伝記もある。(歴代名では、大巖院は本蓮社、霊巖寺、ならびに光明寺では木蓮社としている)霊巖の弟子で大巖院の第3世を継いだ。寛文8年(1668)霊巖寺第4世となり、のち延宝4年(1676)鎌倉の大本山光明寺に転住。貞享3年(1686)2月6日没した。

 霊圓(れいえん)は白濤山海雲寺(かいうんじ)(館山市北条)の開山の専蓮社信譽浄春上人(あるいは信蓮社浄譽上人春光和尚という)の附法(ふほう)の師である。同寺に建立の四面名号石塔には、霊圓の手による名号(みょうごう)と「江戸霊巖寺第四代公譽霊圓(花押)」の文字が刻まれている。この石塔は千日念仏塔であり、開山の信譽浄春が願主となり、海養山龍勢院金台寺(こんたいじ)(館山市北条)の第8世一蓮社躰譽(たいよ)在心源達上人を千日導として厳修(ごんしゅう)され、たくさんの人々が結縁(けちえん)したことが記されている。なお、信譽浄春は安房国北条村の生まれといい、金臺寺第7世念蓮社正譽林達上人が剃髪師となっている。

(2)相蓮社傅譽上人檀了大和尚

 房州の人。霊巖の弟子となり、平群郡穂田(保田)村遣水寺(玉龍山浄喜院)を開く。

(3)本譽太巖和尚

 伝記には「上総国富津の人。上人に従いて霊巖寺に住す。本多家(俊次公)帰依。後に近江国膳所(ぜぜ)(大津市)の縁心寺に住まわしめ、中興開山とす。遁寺して、また勢洲亀山に梅巌寺を創建。寛文七未年四月六日寂。和尚在学の寮、今なお本多家にあり。宿舎是なり」とある。

(4)照蓮社光譽利天上人

 房州長田村の人。光譽利天の生家は館山市東長田に現存し、中山家(屋号腰めぐり)だという。利天は霊巖の直弟子である霊譽鎮風上人(大巖院第2世)の弟子となっているが、霊巖より直接附法相承(ふほうそうじょう)され、南条村大戸の大圓寺を開いた。

 大巖院の境内に霊譽の建立した石燈籠と、組みになっている石燈籠に、「光譽」の名が刻まれているが、利天と同一人である確証はない。『深川霊巖寺志」の「傳燈哲徳」には光譽が二人いて、大和国西方寺を開基し、延宝3年6月4日に没した光譽と利天とが同一人物の可能性も示唆している。

(5)深蓮社廣譽上人

 安房国平郡多田良村の人。船形西行寺本譽岩碩上人の弟子。霊巖寺2世正譽意天上人に三脈(さんみゃく)を受け、寛永18年(1641)同国長狭郡横須賀村前原町に念仏院を建立。延宝7年12月17日没。

(6)生譽直念上人

 土佐国高知郡の人。姓は貞重氏。霊巖寺第3世大譽珂山上人に随い剃度し、伝法相承(でんぽうそうじょう)を授かる。安房国平郡(安房郡)片岡村に鼠福山来迎院菩提寺を建立したという。