3.安房国主里見氏

 安房に布教にきた霊巖を支えたのは、国主の里見9代義康でした。里見家は代々禅宗でしたが、霊巖に帰依(きえ)し、館山城の鬼門(東北)の守りとして、大網の地に一寺を建立し、霊巖を開山に迎えました。

 霊巖は、自分の修業した檀林「大巖寺」に因んで大巖院と名づけ、大巖寺に負けないような、檀林を築こうとします。

 義康はまもなく亡くなりますが、10代里見忠義も霊巖に帰依します。霊巖から慶長15年3月、大切な円頓戒(えんどんかい)を授けられていますので、忠義は軍記物などに述べられているような暴君ではなく、信仰心の厚い君主だったともいえます。このとき忠義は寺領として、42石を寄進しています。

 慶長19年(1614)9月里見氏は改易(かいえき)となります。霊巖は遠く伯耆(ほうき)国(鳥取県)倉吉の地に、忠義を訪ねて慰めたといいます。そして形見に九条(くじょう)の袈裟(けさ)を授けたといいます。

 忠義の墓所、倉吉の大岳院に伝わる裂交袈裟(きりがわしけさ)がそれだといわれています。

6.霊巖筆「大巖院」寺号扁額

6.霊巖筆「大巖院」寺号扁額

 霊巖の書いた額のことは、『伝記』にも登場する。その裏面には慶長14年(1609)の霊巖署名がある。寄進の施主は、伝記に登場する里見の上級家臣・近藤九郎右衛門尉(くろううえもんのじょう)である。寛永13年(1636)朝鮮通信使が大巖院を訪れてこの額の書を嘆美したという。