文禄から慶長頃にかけて、念仏三毒滅不滅論(ねんぶつさんどくめつふめつろん)、つまり、念仏の功徳(くどく)により、人の煩悩(ぼんのう)が滅してから極楽に往生するのか、あるいは、往生してから滅するのかという論争が、浄土宗の中に持ち上がりました。結果は、政治的な力を背景に、増上寺12世の普光観智国師源譽存応(ふこうかんちこくしげんよぞんのう)上人(以降存応と略称)の主張する念仏三毒滅論者が勝利し、三毒不滅論者は追放されることになったのです。
こうして、三毒不滅論者に近い立場にあった霊巖は、慶長8年(1603)、再び表舞台から身を引くと布教の旅に出るこのになるのです。