房総には霊巖上人にまつわる伝説が多く伝わっています。その一つは霊巖の出生地に関するものと、超能力者的な霊巖の霊験の話です。
霊巖の出生地には、駿河国(静岡県)沼津という説と、上総国(富津市)佐貫、あるいは同国小糸とする説があって分明ではありません。転譽存統が著わした『雄譽上人傳記』には、「古伝。大網記。山田記。南都記等には沼津といふ。総系譜(浄土傳燈総系譜)。生実記等には上総国天羽郡佐貫の産」と諸伝を紹介しています。
『生実記』にある「父は里見氏、母は藤氏」という文を引きながらも存統は、霊巖が京都知恩院に居る時分に、所司代の板倉周防守(重宗)に宛てた手紙に「予。生を駿府に禀(う)け」とあることから、『古伝』の伝える今川範将の子貞延の曽孫土佐守氏勝の三男であり、駿河国が正しいとしています。
ところで、『浄土傳燈総系譜』や、千葉大巖寺に伝わる『大巖寺起立来由』等には、「上総国天羽郡佐貫懸所生也。父は里見氏。母は藤の姓」とありますが、それを裏付けるかのように安房・上総には、今なお霊巖に関する伝承が多く伝わっています。
代表的な霊巖伝説のいくつかを引いて紹介します。
1.霊巖上人の生家
(1) 「霊巖上人の生まれた家は佐貫亀田の、旧大坪村に今も残る太田家ではないか」…佐貫・菱田忠義氏/JA富津農協発行「きづな」1994年8月号
(2) 「昔、家(生家を指す)に雄譽上人という人がいたらしい」「(雄譽上人は)ある伝承では富津市亀田、大坪の太田家の生まれであるという。」…亀田・鈴木貢氏/日刊「房総時事新聞」1998年10月6日~8日号
2.霊巖上人の生い立ち
「むかし奇麗な身形(みなり)をした小さな子が、箱に入れられて加賀名の下の海岸に流れ着いた。その子を拾って与五右衛門(平嶋家)で育てたが、青年になるとお坊さんになるといって家を出た。それが霊巖上人で、牛を使うのが上手な子供だった」…館山市加賀名・平嶋浅男家に伝わる話。
3.霊巖上人修行の洞窟
「この観音像(東京観音像)のたっている南の山麓斜面に三つの横穴があります。洞窟の高さは約2メートル、間口2.7メートル、奥行き4.7メートルにつくられています。江戸時代の初め…雄譽霊巖上人が、富津地方で巡歴、修業中、この窟に入って精神鍛錬をしたと伝えられ、春、夏、秋と季節によって窟を使い分けたと古老は語っています。」…富津市史編さん委員会編集『富津市のあゆみ』
4.霊巖上人の霊験
(1)雄譽様の巻物
富津市亀田地区に、雄譽様と呼ばれる名号の巻物(掛軸)があって、非常に御利益(ごりやく)があったという。「海難の多かった昔は、嵐の季節に江戸への行き還りも大変な事だ。そんな時はこの雄譽様を持っていくと必ず無事に還れると言って借りに来た。海で漁が無いときも漁師がきて、お参りすると漁があるといわれていた。」…亀田・鈴木貢氏/日刊「房総時事新聞」1998年10月6日号
(2)火の玉と三日コロリ
江戸時代初期、(富津市)湊の街を…火の玉が転がって進んだという。そうして、この火の玉が止った場所の家からは必ず病人が出て、それも「三日コロリ」といった病気で、必ず死んでしまったという。この災難に困った湊の人々は、そのころ、隣村である佐貫の地に、大変徳の高い坊さんがいることを聞いて、このお坊さんにおすがりしてみようということになった。このお坊さんは雄譽さまと呼ばれ、そのころ佐貫の大坪という所におられた。湊の人々は名主を先導に訪ね…お救い下さいとお願いした。その結果、雄譽さまは湊の地までお出ましになり、熱心に御祈祷をしたという。このお坊さまの徳が天地の神仏に通じたか、伝染病も治まり、もとの平穏な村に返った。雄譽さまのおかげと、名主初め村人たちは涙を流して瑞喜し、一同相談のもと、村のしかるべき所に一寺を建立し、開山として雄譽さまを迎えた。お寺の名の湊済寺とは、湊の地をすくってくださった寺であり、村人たちの厚い信仰のまととなった。」…菱田忠義氏が祖母からじかに聞いた話/「わが郷ふっつ」55火の玉ばなし
(3)雄譽さまの水
東京の霊巖寺の開山堂(現・雄松院)に祀られている雄譽霊巖上人像に毎日お供えする湯茶は、戦前までは、しばしば、近隣で病人がいよいよ危ないというときに、お寺にもらいに来たという。そして、雄譽さまの水だよといって飲ませたのだそうである。これは、最後の切り札の薬湯なのか、はたまた末期の水なのかは不明である。…雄松院・高坂孝子(大正7年生れ)さんの話
(4)霊巖上人のマジナイ
「(上人は)庶民に念仏の教えを弘める方便として、庶民の病災救済のための種々の呪法を残して居られる。例えば大巖院には、せんき、脱腸、安産の護符、検儀谷の大勝院には、難聴を治すまじないが現在も残っている。」…石川龍音氏/館山市文化財保護協会『会報』第7号。昭和49年度
(5)盗賊源兵衛の自殺
大網・大巖院の別時念仏に、人々が群集する賑わいを知った源兵衛という盗賊が、一儲けしようとやって来た。時あたかも雄譽霊巖上人のお説教の最中で静まり返っていたため、仕事のチャンスが訪れるのを待ちながらお説教を聞くとは無しに聞いていた。どんな悪人でも、改心して南無阿弥陀仏の念仏を称えれば、必ず極楽浄土に往生できると聞いた源兵衛は、たちまち、皆の見ている前で罪を悔い、その後切腹して果てたという。源兵衛の墓は近年まで大巖院にあったというが、今は所在が不明であるという。
(6)石田治部少輔の亡霊化導(けどう)
館山の新宿に住む秤(はかり)宗四郎というものが、夜半、金堀塚を通りかかると、俄かに寒気がして、ようやく家に帰るとそのまま気を失ってしまった。病床で口走るのには、自分は亡霊で大網の霊巖上人に供養して欲しいとのこと。問い質すと自分は石田治部少輔三成の亡魂である、苦しみを救って欲しいと答えたので、霊巖上人は終夜回向(えこう)をした。すると亡霊は去り、秤宗四郎は何事も無かったかのように快復したので、国中の万民は霊巖上人を生身の如来と、いよいよ称え仰いだ。
(7)虫除けの名号碑
江戸砂村の長たちが霊巖上人のもとを訪れて「私たちの田畑は肥沃であるにもかかわらず、虫がついて収穫があがりません。何とかなりませんか」と相談した。そこで、上人に名号を書いていただき、それを石に彫ってこれを建てたところ、その後は虫の被害に悩まされず、多いに稔ったという。
(8)沼の主と二龍塚
後に霊巖島と呼ばれる霊巖上人の布教の拠点が出来たが、地続きのお上の沼地をもいただけることとなった。しかし、この沼は埋立てても埋立てても一夜のうちに元の沼になってしまった。このことを聞いた上人は、その場所にお出でになり、三帰五戒十念(さんきごかいじゅうねん)を授けられました。その夜半、沼の主であった二人の龍女が現れて得脱(とくだつ)の礼を述べて立ち去りました。翌朝、きれいに埋立てが完了しているので、人々は驚いたということです。
(9)生きたまま火葬
湊村大橋の正覚という修験者の妻が難産の果てに死んだが、村人が火葬の最中に蘇生し、助けを求めた。しかし、村人たちは狐狸妖怪の仕業と考えて、そのまま火葬してしまった。やがて亡霊となって村人に祟(たた)ったのを、救ったのが霊巖上人の血脈(けちみゃく)と十念であったという。…『富津市史』資料集1/湊済寺縁起
5.霊巖上人を慕って移住
「大巖院檀徒の千倉町平館の大野嘉右衛門(屋号綿屋」の亡父兵助氏は存命中度々私に大野一族五軒は霊巖上人を慕ってはるばる房州の地に移住したと語られた。」…石川龍音氏(大巖院先代住職)/館山市文化財保護協会『会報』第7号。昭和49年度