同じ寛永6年(1629)秋、浄土宗総本山知恩院(そうほんざんちおんいん)の然譽上人(ねんよしょうにん)が遷化(せんげ)し、老中に後任を願い出たところ、将軍の意向で、霊巖に白羽の矢がたちました。かくして、霊巖寺を浅草西福寺(さいふくじ)の正譽意天(しょうよいてん)に譲った霊巖は、10月25日知恩院32世に就き、こうして浄土宗の棟梁(とうりょう)の地位に上(のぼ)り詰めたのです。76歳のことでした。
知行兼備(ちぎょうけんび)の徳名(とくめい)を聞いた人々は、血脈(けちみゃく)十念を願い洛中に市をなしたといいます。後水尾法皇や、明正天皇からの院宣(いんぜん)により参内(さんだい)して説法もしました。
寛永10年(1633)正月9日、火災により総本山の諸堂は灰燼に帰してしまいました。霊巖は直ちに江戸の将軍家に参上し、事情を説明すると、まもなく再建の台命(たいめい)が下りました。寛永13年(1636)、東洋一の洪鐘が完成。15年(1638)、諸堂が完成しました。こうして浄土宗の中興(ちゅうこう)の祖と呼ばれるようになるのです。
寛永18年(1641)お礼に江戸城に伺った霊巖は、3代将軍徳川家光から法問を望まれます。この時城内への駕籠(かご)の乗り入れ、座敷での杖の使用を、特別に許されますが、このとき将軍から拝領した鳩杖(はとづえ)と、団扇(うちわ)が知恩院に伝来するといいます。暑さと高齢のため体の弱った霊巖は、9月1日行年88歳で遷化(せんげ)しました。遺骨は、所縁の寺々にに分配され墓所が築かれて祀(まつ)られました。