ごあいさつ

 房総半島は、西を東京湾、南と東を太平洋に囲まれています。陸路が整備されるに従って、その袋小路性が生まれてきましたが、古墳時代の房総は、他地域との交流がきわめて盛んであったことが発掘調査からわかっています。海上交通路は、私たちが考える以上に、安全でかつ迅速な交通手段だったのでしょう。
 古墳時代には、海食洞窟墓や海辺の祭祀跡など、海に生活基盤をおいた「海人」の足跡が残されています。なかでも館山市沼の大寺山洞窟遺跡では、遺骸や副葬品を乗せた丸木舟が、累々と重ねられ置かれていました。戦後長らく、丸木舟や丸木舟の形態をした棺を用いた「舟葬」否定論が多数を占めていましたが、大寺山洞窟遺跡の「舟棺」によって、舟葬が確かなものになったといっても過言ではありません。
 房総半島南部にある館山湾岸の周辺には、9つの海食洞窟遺跡があります。それらの立地上の際立った特徴は、県内他地域の海食洞窟が、標高5m前後にあるのに対して、標高25~30mという高い位置にあることです。それは、房総半島南端部に帯状に広がる海岸段丘が、地震による隆起が累積した結果、高い高度に形成されたことによります。
 館山湾の洞窟遺跡群は、縄文時代には基本的に生産・生活の場としての「生の空間」として使用され、古墳時代には洞窟墓として「死の空間」へと転換しました。大寺山洞窟遺跡をはじめとした海食洞窟を利用した洞窟葬は、これまで一般に知られてきた古墳時代の葬法とは大きくかけ離れています。「古墳」時代と呼ばれる時代に、古墳を墓としない有力者が沿岸地域に存在していたことを示しています。
 本展覧会では、大地震のたびに隆起していることを示す歴史遺産でもある館山湾の洞窟遺跡群を、「死の空間」としての洞窟墓にスポットをあて紹介し、海を介しての交流により展開した館山の歴史を知る上で、海食洞窟遺跡が欠かせないものであることを理解していただく機会となれば幸いです。
 最後になりますが、本展の開催にあたりまして、貴重な資料を御出品下さいました関係各位、ならびに多大なる御協力と御指導をいただきました皆様方に、心から感謝申し上げます。

平成22年2月6日
館山市教育委員会
教育長 石井 達郎