勝浦市守谷の本寿寺(ほんじゅじ)境内にある本寿寺洞窟遺跡(P9第2図18)は、大正15年(1926)の夏に物置として利用されているところを、江上波夫氏によって発見されました。その後、戦時中には防空壕として、戦後には再び寺の物置として利用されていました。
現在の海岸線から約200mと守谷湾の洞窟遺跡のなかでは内陸部にあり、洞窟の規模は、開口(かいこう)部が幅5.5m、高さ5.2mの大きさです。奥行きは、近年まで7~8m程度と考えられていましたが、現在では18m以上に及ぶことがわかっています。
平成11・12年に、千葉大学文学部考古学研究室が、2次にわたる発掘調査を行った結果、弥生時代後期と古墳時代前期を中心に、縄文時代後期から使用されていたことがわかっています。古墳時代前期の土師器(はじき)・須恵器(すえき)、鉄製刀子(とうす)、鹿の角でつくられた刀子、銅釧(どうくしろ)、卜骨(ぼっこつ)などとともに人骨がみつかっていますので、館山湾の洞窟遺跡同様、この時期に、海食洞窟が墓として使われていたことがわかります。しかし、守谷湾の洞窟遺跡のうち、古墳時代に墓として使われたことが確認されているのは、今のところ本寿寺洞窟遺跡だけです。