守谷(もりや)湾の東端の大ケ岬に、東京都立九段高等学校の施設があります。こうもり(蝙蝠)穴洞窟遺跡(第2図19)は、その裏側の崖面にあり、西北西の方向に口を開けています。標高は7.5mと、守谷湾の洞窟遺跡のなかでは、最も高い場所にあります。大きさは、入口の幅4.8m、高さは3.6mで、奥行きは、一番奥で左右にわかれていて、深いほうの右側(南側)で、39.0mの長さがあります。
大正13年(1924)、東京帝国大学理学部人類学教室が、守谷洞窟遺跡群の荒熊(あらくま)洞窟遺跡の発掘調査を行ったときに発見されました。大正15年に、江上波夫氏によって小規模な発掘が行われ、翌昭和2年(1927)9月には江上氏と増井経夫氏が発掘調査を行なっています。大正15年の調査では、約1mの自然に堆積した砂の層の下から貝層がみつかり、このなかから弥生土器1点が出土しています。昭和2年には、古墳時代の土師器(はじき)の破片のほか、埋葬された人骨がみつかっています。この人骨が、東京大学総合研究博物館に収蔵されているとの文献がありますが、現在のところ該当する資料は確認されていません。
近年、千葉大学文学部考古学研究室により平成12年に測量調査が、平成13年と14年に発掘調査が行なわれ、弥生時代後期末から古墳時代前期にかけて使用されたことがわかりました。
成果のなかで注目すべきは、大型のアワビを中心とした貝の層のなかから、大量の卜骨(ぼっこつ)が見つかったことです。卜骨とは、占いに使われた骨のことで、シカの肩甲骨(けんこうこつ)が多く使われています。今でも春の祭りに、オビシャと呼ばれる行事が行われ、その年の豊作が占われていますが、弥生時代には、動物の骨に熱した棒を押し当てて、熱による骨の割れ方から、吉凶(きっきょう)の占いが行われていました。
みつかった卜骨には、所々焦げたような丸い穴が空いています。房総では、市原市の菊間遺跡などの弥生時代中期終わり頃の大規模なムラで卜骨が多く見つかっています。こうもり穴洞穴遺跡の卜骨は、シカのほか、イノシシ、サルの骨が使われ、肩甲骨だけでなく、寛骨(かんこつ)、肋骨(ろっこつ)も用いられています。
洞窟遺跡からの卜骨の出土は、三浦半島の洞窟遺跡では数多くみられます。一般的に海岸部の洞窟からは貝類や魚骨がみつかり、海を生活の基盤とした集団の痕跡と考えることができますが、こうもり穴洞窟遺跡からは、籾(もみ)の跡がついた弥生土器や、農耕儀礼の祭りで使われたシカ・イノシシ・サルと狩猟により捕獲された動物の卜骨がみつかっています。
勝浦市周辺は、房総丘陵が太平洋沿岸まで迫り、丘陵の尾根部は断崖を持つ岬として海中に突出し、入江が形成されています。海岸部の平坦面は極めて狭く、入江に面するわずかな平地に古くからの集落が小規模に形成されています。
こうもり穴洞窟遺跡を使用していた集団は、漁撈・狩猟と同時に農耕を行っていたのか、あるいは、出土遺物が海の集団と山の集団の交流の痕跡を示すのか、はっきりしたことはわかりませんが、この発掘の成果は、不明な点が多い房総半島南部の弥生時代に、多くのことを教えてくれます。
また、貝層の下から縄文時代後期の土器片が獣骨とともに出土したことも大きな成果です。長兵衛岩陰遺跡の縄文土器と同様に、守谷湾の洞窟遺跡の使用開始の時期を教えてくれる貴重な資料です。