房総半島南部の館山市から南房総市千倉町にかけての海岸沿いには、波の侵食作用をうけた海岸段丘がよく発達していて、幅1㎞前後で半島南部を取り巻くように帯状に分布しています。この地形は、背後にある丘陵地と急な海食崖によって区切られ、この崖の前面には海岸にむかって、段丘が雛壇(ひなだん)状に形成されています(第3図)。
これらの段丘は沼面群とよばれ、おおまかに4面にわけられています。高位のものから沼Ⅰ面、沼Ⅱ面、沼Ⅲ面、沼Ⅳ面(元禄段丘=元禄16年(1703年)の大地震による隆起面)と呼ばれています。各段丘面の標高は、おおよそ23~26m(沼Ⅰ面)、16~21m(沼Ⅱ面)、9~14m(沼Ⅲ面)、5~6m(沼Ⅳ面)、1~2m(大正ベンチ=大正12年(1923年)の関東大地震による隆起面)とされ、これらの海岸段丘は、現在の海岸でみられるベンチ(波食棚(はしょくだな))や海食台といった、海面付近や海面下の比較的浅い深度で形成された地形が、海水面の低下によって海面上にあらわれたものとされています。
縄文時代早期後半から前期(約7,000~5,500年前)には、海進により海水が陸地の低地部に入り込みました。これが「縄文海進」で、縄文時代前期後半からは再び海水が沖合いに退き、沖積地を形成して陸地が広がることが知られています。海進・海退の現象により、海水面の高さはそれ自体が変動することもありますが、地殻変動による土地の隆起と沈降によっても変化します。
特に地震による突発的な隆起は深さの浅い海底を一気に干上がらせ、その後の侵食作用によって海食崖(かいしょくがい)が形成されることにより、明瞭な段丘面と段丘崖がつくられます。歴史上明らかな隆起が認められる地震は、1923年の大正地震(関東大震災)と1703年の元禄地震です。大正地震時には館山湾の沖ノ島、高ノ島の2島が陸続きとなり、元禄地震時の隆起現象は古文書、古地図から明らかになっています。
歴史上の記録がない沼Ⅳ面より高位の沼Ⅰ~Ⅲ面もその分布の形態から、大正・元禄地震と同様の地殻変動が累積した結果、現在の高度に分布していると推測されています。各段丘面の地層中の貝化石や木材などの放射性炭素年代の測定から、過去の地震の発生時期は、6,150年前(沼Ⅰ面)、4,350年前(沼Ⅱ面)、2,850年前(沼Ⅲ面)と推定されています。
このように沼面群は、地震隆起によって海面上にあらわれた段丘面といえますが、それは縄文海進時の最高海水面上昇期に形成されたと考えられている沼サンゴ層や、縄文時代前期末(約5,000年前)から利用がはじまった鉈切(なたぎり)洞窟遺跡、縄文時代後期以降に使用された大寺山洞窟遺跡などの洞窟遺跡が、沼Ⅰ面に分布していることからも知ることができます。縄文海進期には現在より海水面が3~4mほど上昇していたと考えられ、縄文海進最盛時の海岸線は、現在の標高約27mの地点にあったと推定されています。その後の海水面の後退によって、沼サンゴ層や海食洞窟の標高が相対的に高くなるのとともに、度重なる地殻変動(大地震)によって土地が隆起し、現在の標高に位置しているのです。