(4)館山市出野尾洞窟遺跡~入江の奥部にある洞窟遺跡

 館山市の地形は、北から嶺岡(みねおか)丘陵、館山平野、安房丘陵に大別することができ、海岸沿いには沼面群と呼ばれる地震隆起段丘が、館山市を取り巻くように細長く分布しています。地質は、新生代第三紀から第四紀にかけて(約240万年前~40万年前)形成され、地質学上古いほうから西岬(にしざき)層・千倉層・豊房(とよふさ)層とよばれています。これらは主に凝灰岩・泥岩・砂岩とやわらかい地層のため、河川の侵食により丘陵部には比較的大きな谷が刻まれています。

 館山市出野尾(いでのお)にある出野尾洞窟遺跡(第1図6)は、南に向かって丘陵に深く入り込む谷津に面する丘陵の下部にあります。遺跡周辺は、谷津田を丘陵が取り囲むような場所で、出野尾洞窟遺跡はとても海食洞窟とは思えない景観のなかにあります。しかし、周辺の水田から出土する沼サンゴの化石からも、縄文海進時に出野尾洞窟遺跡周辺に海が入り込んでいたことを知ることができます。

 館山湾の洞窟遺跡は高い地点にあることが特徴ですが、出野尾洞窟遺跡は最も高い標高約30mの位置にあります。開口方向は西で、開口部は幅5.0m・高さ1.5m、奥行き6.5mの大きさです。

 昭和29年(1949)、千葉大学の神尾明正教授の指導により県立安房第一高等学校(現在の安房高等学校)郷土史研究部による発掘調査が行われました。調査当時は、天井に達するほどの土砂が堆積し、空洞になっていた部分はわずかだったようです。

 堆積した土砂の最上部からは、土師器(はじき)・須恵器(すえき)と人骨が確認され、その下層から大量の貝殻とともに、縄文時代前期の諸磯(もろいそ)式土器が出土し、なかには貝殻が付着した状態で発見された土器もあるとされています。

 これらの報告は、昭和46年(1971)の『館山市史』に掲載されていますが、出土遺物の所在は不明でした。今回の特別展の開催にあたり、当館の収蔵資料を再確認したところ、昭和60年に小網寺(こあみじ)より寄贈された出野尾貝塚出土資料が、その内容から出野尾洞窟遺跡出土資料ではないかと考えました。遺物は全部で3箱あり、人骨、獣骨・貝類の自然遺物のほか、縄文土器と古墳時代の土師器などがあります。

 ただし現在残されている縄文土器は、加曽利(かそり)B式、称名寺(しょうみょうじ)式、堀之内式など縄文時代後期の土器で、縄文時代前期の土器は全くみられません。しかし縄文時代後期は、館山湾の洞窟遺跡が盛んに使用された時期にあたるため、自然遺物とともに今回取り上げることとしました。

 一方で、古墳時代の土器は須恵器がなく、古墳時代後期の6世紀から7世紀にかけての土師器を確認しました。その種類は、6世紀中頃の朱塗りの土師器坏や、手づくね土器などの祭祀(さいし)遺物のほか、煮炊きに用いられた長銅甕などです。三浦半島の大浦山洞窟遺跡では、古墳時代に洞窟内で祭祀が行われていますが、館山湾をはじめとする房総半島では確認されていません。また、出野尾洞窟遺跡の南東側に、7世紀代の須恵器と勾玉・丸玉・鏡形の土製模造品が出土した祭祀遺跡・猿田(さるた)遺跡があります。小網寺で保管されていた際に、猿田遺跡の遺物が混入した可能性もあると考え、今回は展示を見送りました。

 今後、土器類の詳細な時期の検討や人骨の年代測定などを行い、昭和29年調査の基礎データをまとめ、出野尾洞窟遺跡の再検証を行う予定です。

出野尾洞窟遺跡
出野尾洞窟遺跡
縄文土器
縄文土器
自然遺物
自然遺物
人骨
人骨

資料14.出野尾洞窟遺跡出土遺物 当館蔵