(2)三浦市雨崎洞窟遺跡~舟形の木棺、舟形の石室、火葬。多様な洞窟葬

 三浦半島の南端部、東京湾の浦賀水道に面する三浦市南下浦町松輪に、間口(まぐち)という小さな漁港があります。入江に面した岩壁には、北から大浦山洞窟遺跡、間口A・B洞窟遺跡、さぐら浜洞窟遺跡など大形の洞窟遺跡があり、三浦半島を代表する洞窟遺跡をまとめて見学することができます。

 この漁港から、北に向かい磯づたいを約2㎞北上すると、金田湾の南に雨崎(あめさき)洞窟遺跡があります。この洞窟遺跡は、三浦市南下浦町金田にあり、浦賀水道に向かって突き出した剣崎(けんざき)という小さな岬の北側の付け根に位置しています。標高は約7.5mで、開口部は西を向き、入口幅7m、奥行き4m、高さ2.5mと、三浦半島の海食洞窟遺跡としては小規模なものです。

 横須賀考古学会が、昭和41年(1966)から同43年にかけて3回にわたる発掘調査を行った結果、洞窟の下層から弥生時代中期から古墳時代前期にかけての生活の跡が、上層からは古墳時代前期から終末期にかけての墓所の跡が確認されました。

 洞窟の基盤となる岩盤の上に薄い砂層が堆積し、その上の薄い灰層から、貝殻や魚骨に混じって弥生時代中期の須和田(すわだ)式土器や伊豆諸島の神津島産の黒曜石が出土しています。この層の上を、土が混じった貝層が覆い、弥生時代後期の宮ノ台(みやのだい)式土器や板状の鉄斧(てっぷ)がみつかっています。

 洞窟入口の庇(ひさし)の下には、弥生時代後期の土が混じった貝層に接して、落盤による大きな岩の塊が横たわっていました。その下には、洞窟内部では、洞窟特有の灰と炭が混じった層と、細かい貝殻片を含む土層が、交互に繰り返し重なり合っていました。洞窟の外の斜面では、30㎝ほどの厚さの貝層が確認されました。

 灰層や土が混じった貝層からは、弥生時代中期から古墳時代前期にかけての土器や、鹿角製の回転銛頭(もりがしら)・釣針・ヤス・アワビオコシ、骨製鏃、牙製鏃などの漁撈(ぎょろう)用具、卜骨(ぼっこつ)、貝刃(かいじん)、貝輪、磨製片刃石斧(ませいかたはせきふ)などが出土しています。

 館山湾の洞窟遺跡との比較の上で、雨崎洞窟遺跡が大変興味深いことは、多数の人骨が出土し、古墳時代の洞窟葬の多様性を教えてくれたことです。

 洞窟入口の下にあった大きな岩の塊から洞窟の内部には、弥生時代後期の厚さ約50~120㎝の灰と炭と砂の層が相互に堆積しています。この互層の上に、古墳時代前期の火葬された人骨片が、約4mの範囲にまき散らしたかのように散らばって分布していました。これらの火葬骨の下から、木棺が発見されました。木質の部分はすでに朽ち果てていましたが、表面に塗料が塗られていたこと、長さ150㎝、幅36㎝、深さ13㎝であることが確認されました。この木棺は、南北方向におかれ、中からは頭を北にした小児の人骨と、碧玉(へきぎょく)製勾玉(まがたま)、滑石(かっせき)製勾玉・臼玉(うすだま)、碧玉製管玉(くだたま)など(資料19参照)が多数副葬されていました。

 このほか、岩塊を長さ120㎝、幅40㎝の舟形に囲い、中の左半分に子どもの頭骨片や胸骨・肢骨(しこつ)などが、右半分には頭部から顔面が丹で赤く塗られた大人の頭骨などが雑然と積み込まれた状態に置かれた施設もありました。また、洞窟の壁のくぼみには、別の場所で骨にした人骨をあらためて再葬し、それらを寄せ集めて岩で囲んだ遺構も確認されました。

 墓として使用された古墳時代前期の層の上には、古墳時代後期から終末期にかけての厚さ60~70㎝の墓域層があります。館山市大寺山洞窟遺跡でも、古墳時代中期の5世紀から終末期の7世紀にかけての約200年間、洞窟が墓所になっています。しかし、雨崎洞窟遺跡との大きな違いが、大寺山洞窟遺跡では古墳時期から終末期にかけての遺構と遺物が、同じ層から確認されたということです。

 雨崎洞窟遺跡では、古墳時代後期においても、洞窟の壁のくぼみに、別の場所で骨にした人骨をあらためて再葬し、押し込めるように埋葬した上でその前に須恵器などを副葬したものや、おそらく海岸で採集した岩塊を寄せ集めた中や岩塊で覆った下、舟形の郭とした中に人骨を納めたものもあります。岩塊を舟形にならべたなかに人骨を納めた同様の遺構は、近くの三浦市南下浦町松輪のさぐら浜洞窟遺跡でも確認されています。さぐら浜洞窟遺跡の舟形石郭の大きさは、長さ250㎝、中央部の幅54㎝、高さ60㎝の大きさであることがわかっています。

 また雨崎洞窟遺跡では、岩塊をほぼ長方形に配置し、その上に木棺をおいて火葬した古墳時代後期の施設が確認されました。石組みは真赤に焼け、組合せ木棺の一部は炭化した状態で出土しました(P7参照)。石組のなかからは、火葬骨や副葬品の直刀などがみつかりました。

 古墳時代後期以降の洞窟葬に伴う遺物としては、そのほかに刀子(とうす)、鉄鏃(てつぞく)、金銅環(こんどうかん)、黒漆塗竹櫛(くろうるしぬりたけくし)、骨鏃(こつぞく)、骨製笄(こうがい)、須恵器(すえき)、土師器(はじき)などがあります。雨崎洞窟遺跡を代表例とする、三浦半島における古墳時代の洞窟葬は、舟形の木棺や石郭、あらたに導入された火葬や弥生時代から継承する再葬など、同時期の館山湾の洞窟葬よりもさらに多様であることがわかります。しかし、火葬や再葬の人骨には、土師器・須恵器、直刀・鉄鏃などの武具、勾玉(まがたま)・管玉(くだたま)などの玉類などが副葬されていて、一般的な古墳に納められる副葬品と何らかわるところがありません。

 このことは大寺山洞窟遺跡を代表とする館山湾の洞窟遺跡でも同様で、日本各地の沿岸にみられる古墳時代の洞窟葬は、「古墳」が時代の象徴として全国各地につくられた時期の葬法が、現代の私たちがイメージしている以上に多様であったことを教えてくれます。