(2)館山市佐野洞窟遺跡と安房神社洞窟遺跡~人骨の年代をめぐる問題
  1.館山市佐野洞窟遺跡

 大正14年(1925)1月18日の東京日日新聞(現在の毎日新聞の前身)に、安房国安房郡神戸村佐野(現在の館山市佐野)字白萩(しらはぎ)から道路改修工事の際に、多数の人骨と古器物(こきぶつ)が発見されたという記事が掲載されました。その内容は、「道路の補修に使う土砂を掘るため、いわゐ堂跡(今の館山市立房南中学校裏の山裾)を掘っていたところ、土砂のなかから頭蓋骨(ずがいこつ)2体とともに多数の人骨があらわれた。驚いた人々は、傍らの芝地に人骨を仮埋葬し供養した。」というものでした。

 この記事を見た、東京帝国大学(現在の東京大学)理学部人類学教室の八幡一郎氏は、1月27日に当時の房総方面への発着駅であった両国駅を出発しました。途中千葉駅で下車し、千葉医科大学(現在の千葉大学医学部)解剖学教室で保管されていた頭蓋骨2体と出土品を実見しました。

 東京日日新聞の報道により、千葉医科大学は1月21日に現地に赴き、仮埋葬された人骨の大部分を掘り出し、一緒にみつかった出土品とともに研究資料として持ち帰っていたのです。八幡氏が千葉医科大学を訪れた同日、千葉医科大学は現地で再発掘を行い、さらに多数の人骨と一つの遺物を発見しています。

 八幡氏が佐野に到着したのは翌日の1月28日だったため、千葉医科大学の発掘をみることができず、人骨出土地はほとんど残すところなく掘り返されていました。しかし八幡氏は、現地で聞き取り調査や地盤の状況を確かめるための発掘調査行い、出土した場所は大正6年に豪雨で崩れ(第6図A線)、大正12年9月1日の関東大震災で再び崩落(第6図B線)した場所であることや、人骨や遺物がアワビやアカガイを含む砂のなかに包含されていたことを記録に残します。

 以上のことは、同年3月に発行された『人類学雑誌』第40巻第3号の「安房国安房郡神戸村古人骨埋没地」に記されていますが、そのなかで八幡氏は、人骨の出土地が洞窟であったという仮説をたてます。現地が崖面の崩落場所であるということと、房総半島の各地に洞窟が存在するということが理由のひとつに挙げられています。ちょうどこの時期は、現在の勝浦市守谷湾洞窟遺跡の調査が盛んに行われていた時期に当たり(P16参照)、八幡氏は、前年の大正13年12月に荒熊洞窟遺跡の発掘調査を行っていました。

 昭和2年(1927)、千葉県が刊行した『史跡名勝天然記念物調査』にこの人骨の出土例が報告されています。八幡氏の仮説を引用したのでしょうか。遺跡の名称は「佐野洞窟」とされています。この報告には2体の完全な姿の頭蓋骨写真も載せられました。人骨のほかには勾玉(まがたま)や貝輪(かいわ)も数点出土したと報告され、4点分の図があわせて載せられています。

 佐野洞窟遺跡(第1図7)は、大正13年の道路補修の際の採石で消滅したこと。また、昭和16年に館山海軍砲術学校が開校し、遺跡のすぐ南側に落下傘降下訓練用の大規模なプ-ルが建設されるなど、発見当時の状況と周辺が大きく変わり、よくわからなくなってしまいました。

 しかし、佐野洞窟遺跡の発見の経緯については、雑誌や報告書に記載されただけでなく、地元の有志も記録を残していました。佐野にある千葉寺門前には、「佐野洞窟出土人骨弔魂碑」とも呼ぶべき記念碑が、大正15年7月に建てられています。

 そこには「南無阿弥陀仏 大正十二年九月一日大震二遇ヒ、里道大破ス。翌年里人復旧ノ工ヲ起シ、石材ヲ旧岩見堂址ニ採ル。偶岩層ノ間ニ白骨数躯ヲ発掘ス。蓋中古時代ノモノナランカト、研究資料トシテ、千葉医科大学ニ納ム」と記録されています。

 佐野洞窟遺跡の推定値は、標高約28mの位置にあり、館山湾の洞窟遺跡の立地としては標準的な場所にあります。出土した人骨は、同時にみつかった貝輪とともに東京大学総合研究博物館に収蔵されています。今まで佐野洞窟遺跡の人骨は、縄文人的とされながら、一緒に出土した勾玉と貝輪の形式から、弥生時代の人骨と考えられてきました。しかし、一部の人骨(肋骨(ろっこつ))から直接コラーゲンを抽出し、放射性炭素年代測定が行われた結果、縄文時代前期に由来することがわかりました。ただし、注意したいことは、層位的な発掘による出土ではないため、固体の特定ができず、部位別の同定が行われたこと。また、すべての人骨の年代測定が行われていないことです。さらに、考古学の年代基準のもととなる土器が確認されていないという課題もあります。

 しかし、生物考古学(バイオアーケオロジー)により提供された新情報は、従来の考古学手法では得られなかったものです。縄文時代前期の縄文海進により形成された海食洞窟が、縄文時代前期に使用されている例は、館山湾の洞窟遺跡の中でも鉈切(なたぎり)洞窟遺跡にありますので、佐野洞窟遺跡が同時期に使用されていても不思議ではありません。今後、考古学と生物考古学による様々なアプローチが、佐野洞窟遺跡の年代の幅を明らかにすることになります。

第6図 佐野洞窟遺跡断面図<br> 八幡一郎「安房国安房郡神戸村古人骨埋没地」1925.3より転載
第6図 佐野洞窟遺跡断面図
八幡一郎「安房国安房郡神戸村古人骨埋没地」1925.3より転載
佐野洞窟遺跡推定値の現況<br> 手前にあるのが館山海軍砲術学校落下傘投下訓練プ-ル跡
佐野洞窟遺跡推定値の現況
手前にあるのが館山海軍砲術学校落下傘投下訓練プ-ル跡
佐野洞窟遺跡出土人骨<br> 千葉県『史跡名勝天然記念物調査』4 1927より転載
佐野洞窟遺跡出土人骨
千葉県『史跡名勝天然記念物調査』4 1927より転載
貝製品実測図<br> 千葉県「佐野洞窟」『史跡名勝天然記念物調査』4 1927より転載
貝製品実測図
千葉県「佐野洞窟」『史跡名勝天然記念物調査』4 1927より転載
佐野洞窟出土人骨を弔魂した碑
佐野洞窟出土人骨を弔魂した碑