【3】房総半島の対岸-三浦半島の洞窟遺跡

 三浦半島は神奈川県の東南端に位置し、現在の横須賀市・三浦市・逗子市、三浦郡葉山町を含む範囲にあります。東を東京湾、西を相模湾、南を太平洋に囲まれています。三浦半島の観音崎(神奈川県横須賀市)と房総半島の富津岬(千葉県富津市)の間隔は約7kmと狭く、両半島が近い位置にあることがわかります(第2図参照)。

 三浦半島では、現在30を越える海食洞窟で遺構や遺物が確認され、それらが使用された時期は、縄文時代後期から明治時代にまで及んでいます。房総半島、そのなかでも館山湾の洞窟遺跡と異なるのが、弥生時代中期以降に生活の場として盛んに使われたことです。館山湾の洞窟遺跡は、弥生時代には全く使われていないのです。

 その一方で三浦半島では、平成8年(1996)に三浦市松輪の間口(まぐち)東洞窟遺跡が調査されるまで、縄文時代の洞窟遺跡は確認されていませんでした。この調査により、三浦半島における海食洞窟の利用が、はじめて縄文時代後期まで引き上げられたのです。

 もうひとつ、三浦半島と館山湾の洞窟遺跡で異なるのが、洞窟の立地とその形成時期です。館山湾の洞窟遺跡の大きな特徴は、標高25~30mと高い位置にあるということですが、三浦半島の洞窟遺跡は標高2.2mから9mの位置に開口し、現在の海岸など、海食洞窟であることをまさに実感できる場所に立地しています。

 洞窟の形成時期については、今まで考古学からは特に問題とされることもなく、縄文海進で形成されたものと考えられてきましたが、平成8年に間口東洞窟遺跡ではじめて縄文時代後期の遺構と遺物が発見されて以降、地質学の研究から新しい成果が示されました。

 間口東洞窟遺跡には、標高8.2~8.0mの位置と7.4m以下の2カ所に洞窟がありますが、この2つの波食面の間にある海成砂層の放射性炭素年代を測定した結果、標高8m以上にある間口東洞窟遺跡(上位)などが約6000~5000年前、標高6m前後の間口東洞窟遺跡(下位)・三浦市三崎の西の浜洞窟遺跡・同海外町の海外第一洞窟遺跡などが約5000~4000年前、標高4m以下の三浦市南下浦町松輪の大浦山洞窟遺跡・同間口A洞窟遺跡が、4000年前~2000年前に形成されたものであると報告されました。

 三浦半島の洞窟遺跡内には、厚さ数㎝~1mにも及ぶ灰層や、スガイ・イシダタミなどの小型巻貝やアワビ・サザエを中心とした厚さ数㎝~50㎝の貝層が堆積しています。これらの層からは、貝類・魚類・鳥類・哺乳類などの動物遺体や、土器・釣針・貝包丁などの貝製品、卜骨(ぼっこつ)などが出土しています。魚介類や漁撈具の量から、漁業が盛んに行われていたこと。また、貝製品の未製品が多いことから、その製作の場でもあったとされています。

 三浦半島の洞窟遺跡では、縄文時代後期からこのように生活・生産の場としての使用がはじまり、弥生時代中期から古墳時代前期にかけて盛んに利用されています。それ以降は、多くが埋葬の場所として使用され、古墳時代に死の空間であったことは、館山湾の洞窟遺跡と共通しています。

 しかし、三浦半島の洞窟遺跡が異なるのは、生活の場として使用されていた弥生時代中期から古墳時代前期にかけて、洞窟の壁面にある小空間に、洗骨(せんこつ)がされた骨が埋葬されていることです。その一方で、三浦市南下浦町金田の雨崎洞窟遺跡では、古墳時代前期の火葬された人骨が出土しています。古墳時代前期のみを例にしても、三浦半島では、多様な埋葬形態があることがわかっています。