大寺山(おおてらやま)洞窟遺跡から館山湾岸を西に約4㎞、館山市浜田に鉈切(なたぎり)洞窟遺跡(千葉県史跡「鉈切洞穴」)があります。大寺山洞窟遺跡同様、館山湾に面した標高約25mの高所に位置しています。洞窟そのものが地域の氏神、船越(ふなこし)鉈切神社の境内となり、洞窟の入口をふさぐかのように拝殿が建ち、祭神である豊玉姫命(とよたまひめのみこと)は洞窟内に鎮座しています。海の民が信仰を寄せてきたことが、17世紀後半に紀州漁民が奉納した鰐口(わにぐち)などからうかがわれます。鎮守の森が自然林の形で残され、氏子のみなさんの努力により、神社・洞窟とともに手厚く守られていることが印象的です。
拝殿前の宝物庫に一艘の丸木舟があります。クスノキ製で、全長約2.19m、幅約70㎝の大きさです。この丸木舟のことは、江戸時代に、水戸黄門としてよく知られる水戸藩第二代藩主の徳川光圀(とくがわみつくに)が編纂(へんさん)を開始した『大日本史』に記載され、元禄8年(1695)の編纂関係の文書に、洞窟の奥に伝世したものと考えられる由来不明の10数艘の舟が置かれていたとの記録があります。現存している丸木舟は、そのうちの一艘が伝えられたのであろうと考えられてきました。
鉈切洞窟遺跡が、考古学界に登場するのは丸木舟が紹介されたことにはじまります。明治27年(1894)、岡部精一氏が東京人類学会雑誌に「房州旅行中所見」を発表しました。また、大正7年(1916)に西村眞次氏が人類学雑誌に「鉈切船越神社所蔵の刳舟(くりぶね)」で、この丸木舟を紹介しました。その後、安房神社洞窟遺跡を発掘した大場磐雄氏が、昭和9年(1934)、史前学雑誌に「本邦上代の洞穴遺跡」を発表し、鉈切洞窟遺跡は房総半島の主要な洞窟遺跡として知られることになりました。
鉈切洞窟遺跡は北東に開口し、開口部は高さが4.2m、幅が5.85m、奥行きは36.8mと房総半島のなかでは大きな洞窟遺跡です。昭和31年に行われた発掘調査では、洞窟の内外の計7ヵ所のトレンチが設定されました。
発掘調査の結果、縄文時代後期初頭の称名寺(しょうみょうじ)式土器とともに、魚を捕るための鹿角(ろっかく)製釣針や銛(もり)、鏃などのほか、土器の破片を再利用して、長方形や楕円形にかたちを整え、長軸の両端に網をかけるための切込みをいれ、網の重りとして使われた土器片錘(どきへんすい)や、ベンケイガイ・オオツノハ製の貝輪・ハマグリ製の貝刃(かいじん)などの貝製品が出土しています。また、マダイやマグロなど魚骨47種、アワビやサザエなどの貝類68種が出土しました。さらに、大量のイルカの骨がみつかっています。イルカの骨は、館山湾の洞窟遺跡の大寺山洞窟遺跡や出野尾(いでのお)洞窟遺跡のほか、館山市小原(こばら)にある縄文時代早期の稲原貝塚で出土しています。稲原(いなばら)貝塚からは、イルカの骨にささった黒曜石製の銛先がみつかっていますので、イルカ漁が行われたことを知ることができます。
資料24.鉈切洞窟遺跡出土遺物 当館蔵
これらの出土遺物は、当時の漁民が海岸部での魚介類の採集にとどまらず、かなり遠方まで漁をしにいったことを物語る資料です。そのほか海鳥や、シカ、イノシシ、タヌキ、サルなどの骨も出土しており、同時に山の猟も行っていたことがわかります。
生活の場は、洞窟の入口部分であったと考えられ、季節的な居住ではなく、定住的な生活が営まれていたのではないかと考えられています。
出土した縄文土器には、対岸の神奈川県の土器の影響が強くみられます。縄文時代後期、東京湾岸地域には、海と山からのめぐみにより、数多くの集落が存在していたと考えられています。これらのことから、漁や交易のために盛んに東京湾を行き来した縄文人の姿を想い起こすことができます。近年、三浦半島でも、縄文時代後期に使用された間口東洞窟遺跡が確認されました。天気が良い日には、鉈切洞窟遺跡の北側にある現在の海岸から、三浦半島最南端の城ヶ島を望むことができます。当然のことながら、三浦半島との人の行き来もあったはずです。
鉈切洞窟遺跡は、千葉県を代表する縄文時代後期の遺跡として昭和42年(1967)に千葉県史跡に指定されましたが、大寺山洞窟遺跡での舟葬(しゅうそう)の発見は、従来の発掘例に再検討を迫ることになりました。注目されるのは、昭和31年の発掘調査により、わずかですが、古墳時代後期の土師器(はじき)や須恵器(すえき)、小片となった大刀(たち)や鉄鏃(てつぞく)が、人骨とともにみられたことです。
大寺山洞窟遺跡で、丸木舟を利用した保存状態が良好な棺が大量に発見されたことは、鉈切洞窟遺跡にも同様の舟棺(ふなかん)が納められた可能性を示唆しています。この洞窟内に伝世されてきたクスノキ製の丸木舟が、古墳時代の舟棺であったのかどうか。丸木舟にしては全長が219cmとかなり小型であることが気になりますが、生物考古学の分析とあわせた今後の考古学の課題です。