東京湾に面した富津市と安房郡鋸南(きょなん)町との境に、明鐘崎(みょうがねさき)という岬があります。安房国と上総国の国境をなす清澄(きよすみ)山系が房総半島を横断していますが、その西端の鋸山が浦賀水道に突き出した部分が明鐘崎です。かつては、北の富津市側に2基(1・2号洞窟)、南の鋸南町側に1基(3号洞窟)と計3基からなる明鐘崎洞窟遺跡群がありました。
鋸山は、建設資材として使用された房州石の産地として知られ、昭和57年(1982)まで採石が行われていました。昭和28年、当時の金谷村明鐘崎で行われていた採石作業中に、旧明鐘隧道の北西約5mの位置にあった1号洞窟から人骨が発見されました。これを受けて、對馬郁夫氏が現地踏査と遺物確認を行いましたが、その段階で大部分が破壊されていて、洞窟の最奥部がわずかに原型を留めていた状態であったといいます。
1号洞窟の西方にあった2号洞窟は、踏査の段階でほぼ完全に破壊されていたといい、古墳時代後期の土師器(はじき)片と鉄器片が採集されています。また、1号洞窟の南西約30mの位置にあった3号洞窟も崩れ果てて、若干の灰層が認められる程度であったといいます。標高は1号洞窟が約17m、2号洞窟が約7m、3号洞窟が約20mとされていますが、2号洞窟が極端に低い位置にあります。海食洞窟の形成時期あるいは成因が異なる可能性がありますが、採石事業により現地は完全に削平され平坦になっているため、再検討は不可能です。
北に開口した1号洞窟内には、灰や木炭、獣魚骨、貝殻を含む海砂質の堆積土があり、弥生時代後期の壷形土器3点、甕形土器1点が人骨とともに出土しました。そのうち人骨は、富津市金谷の本覚寺の墓地に埋葬されたと伝えられています。また弥生土器2点は、昭和39年の『弥生式土器集成』に掲載され、完形の壷形土器1点が重要文化財に指定されています。朱塗りのこの土器(資料.15)、昭和48年に出光美術館のコレクションとなりました。
考古学の成果のなかでは、館山湾の洞窟遺跡は弥生時代には使用されていないという特徴があります。一方で、東京湾をはさんだ三浦半島では、弥生時代に海食洞窟が盛んに利用されていますので、明鐘崎洞窟遺跡は三浦半島との強いつながりをうかがわせる遺跡であるということができます。