2.勝浦市長兵衛岩陰遺跡

 守谷湾の洞窟遺跡のなかでも、現在の海岸線から遠い地点にある本寿寺洞窟遺跡から、さらに80mほど谷奥にあるのが、勝浦市守谷の長兵衛(ちょうべえ)岩陰(いわかげ)遺跡(第2図18)です。

 幅12.2m以上、高さ2.6m、奥行き3.4mの大きさで、本寿寺右岸の丘陵斜面中部に開口(かいこう)し、平成11年に行われた千葉大学による本寿寺洞窟遺跡の測量調査の際に発見されました。遺跡の名称は、土地所有者の屋号から名付けられたものです。

 標高は11.5mと、守谷湾の洞窟遺跡のなかでは極めて高い位置にあります。同じ守谷湾の洞窟遺跡のなかでも高い位置にあるこうもり穴洞窟遺跡(7.5m)、本寿寺洞窟遺跡(6.0m)と比べても高い標高にあるため、縄文海進時の海水ではなく、本寿寺川の川の浸食により形成された岩陰ではないかと考えられています。

 平成11・12年の千葉大学による発掘調査の結果、縄文時代中期の加曾利E式と後期の称名寺(しょうみょうじ)式、堀之内式、加曾利B式の土器が出土しています。館山湾の洞窟遺跡の大寺山洞窟遺跡第3洞や鉈切洞窟遺跡でも、縄文時代後期前半の称名寺式から堀之内式にかけての時期が、洞窟が最も盛んに使用された時期にあたり、守谷湾の洞窟遺跡でも同じ様相をあらわしています。