【4】館山湾の洞窟遺跡-棺になった舟。黄泉の国への憧憬

 房総半島は、西側を東京湾、南と東を太平洋に囲まれています。陸路が整備されるに従って、半島特有の袋小路性が生まれてきましたが、古墳時代の房総は、海を通じての他地域との交流がきわめて盛んであったことが、発掘調査の成果からわかっています。当時の海上交通路は、私たちがイメージする以上に、安全で迅速な交通手段だったのでしょう。

 半島の南端部は、丘陵が海に迫り、複雑な海岸地形が形成されています。自然の良港と海の幸に恵まれ、古代の安房国は、宮廷で用いられた干し鮑の貢納地でもありました。

 古墳時代には、海辺の祭祀(さいし)跡である南房総市白浜町の小滝涼源寺(おだきりょうげんじ)や館山湾岸に集中してみられる海食洞穴墓など、海に生活基盤をおいた「海人」の足跡が残されています。なかでも館山市沼の大寺山洞窟遺跡では、遺骸や副葬品を乗せた丸木舟が累々と重ねられ置かれていました。考古学界のなかでは、戦後長らく、丸木舟や丸木舟の形態をした棺を用いた「舟葬(しゅうそう)」否定論が多数を占めていましたが、大寺山洞窟遺跡の「舟棺(ふなかん)」によって、沈みかけていた舟葬が確かなものになったといっても過言ではありません。

 三浦半島の海食洞窟遺跡でも、古墳時代の舟形の木棺(もっかん)や石郭(せきかく)が確認されています。また、装飾古墳の壁画に描かれた船に象徴されるように、古墳時代には海の彼方に他界をみた人びとがいたことがうかがわれます。しかし、実際に舟に遺骸を葬った例は限られ、大寺山洞窟遺跡で確認されているのみです。