発掘調査は、昭和24年(1949)、同37年、同38年の3回にわたり、三浦半島の地域史研究を1920年代からリードし続けた赤星直忠(あかほしなおただ)氏と、戦後それに加わった岡本勇氏・浜田勘太氏らによって、横須賀考古学会の学術調査として実施されました。
調査の結果、洞窟の利用は弥生時代中期後半から古墳時代後期にいたるまで、居住と墓地、つまりは生活と死の空間という二つの利用がされていることが明らかになりました。このことは、三浦半島の海食洞窟遺跡の特徴を顕著にあらわしています。
出土した遺物は、土器をはじめに骨角器(こっかくき)・貝製品(貝輪・貝刃(かいじん)・貝包丁)・卜骨(ぼっこつ)・玉類(管玉(くだたま)・ガラス製小玉)などで、弥生時代中期後半から古墳時代前期にかけて盛んに利用されたことがわかっています。骨角器は、回転銛頭・釣針・ヤスなどの漁具のほか、弓筈状有栓角器(ゆはずじょうゆうせんかくき)・アワビオコシ・骨製笄(こうがい)などの珍しい遺物がみられます。そのうち回転銛頭(もりがしら)の存在が注目されています。
この種類の銛は、縄文時代晩期に宮城県仙台湾を中心に発達したものですが、大浦山洞窟遺跡出土のものは弥生時代中期後半のものであり、太平洋沿岸の漁具の伝播を知る上で重要であるとされています。また鹿角製のアワビオコシとともに、多量の大型アワビ・サザエの殻が出土していることから、弥生時代中期後半から古墳時代前期にかけての生業の中心が、それらの貝の採集であったと考えられています。
土器は、弥生時代中期後半から古墳時代後期まで、煮炊き用の甕形土器の多いことが特徴で、その出土はいずれの時期においても入口近くに限られていたようです。その一方で、古墳時代前期の高坏・器台・手焙(てあぶり)形土器などの祭祀(さいし)用土器は、奥部で確認されていることから、洞窟の内部で生活と祭祀の空間が区別されていたのではないかと考えられています。
このことは死の空間ついても同様で、弥生時代の人骨も洞窟の奥に集中しています。東京大学教授などを歴任した人類学者の鈴木尚(ひさし)氏は、13体ほどの遺骸を認めることができるとした上で、いずれも頭骨以外の骨が少なく、頭骨内部に損傷が認められることから、脳が食された後に、洞窟内に投げ込まれたのではないかとしています。その原因として、個人的遺恨などが推測されています。
ところが古墳時代前期以降の墓域は様相を一変し、石組の施設に変わります。この洞窟は奥部で左右にわかれていますが、右左の支洞からみつかった1号墓・2号墓で、古墳時代前期の土師器(はじき)と大型の管玉(くだたま)が出土しています。そのうち1号墓では、内部に大型のサザエやアワビが敷かれていたことから、埋葬者は、当時の生業の中心であったと考えられる貝の採集と関わりをもった人物であると推測されています。
さらにこの遺跡からは、中世の12世紀中頃のものではないかとされる山茶碗と須恵質広口壷(すえしうひろくちつぼ)が出土しています。それらが何に使われたのか諸説ありますが、海上交通の安全やその祈願のために使用されたという考え方が指摘されています。
大浦山洞窟遺跡の調査は、三浦半島の海蝕洞窟遺跡の性格を明らかにし、その後活発に行われた調査の指標となった洞窟遺跡であると評価されています。