房総半島の南部には、約50の海食洞窟が確認されています。海食洞穴とは、波の浸食作用によって、海岸の崖のやわらかい部分がえぐられてできた洞穴のことをいいます。それらのうち、洞窟の形成後に先人達が使用した痕跡を認めることができる海食洞窟遺跡(以下、「洞窟遺跡」と呼びます。)は、現在20遺跡程確認されています。
なかでも、房総半島の南端部にある館山湾岸とその周辺には、9つの洞窟遺跡(第1図)が分布していますが、もとは波打ち際にあった海食洞窟が、現在標高25~30mという高い位置にあるという立地上の際立った特徴があります。その一方で、安房郡鋸南町(きょなんまち)、富津市、勝浦市など県内他地域の洞窟遺跡は、標高5m前後の高さにあります。
立地上の特徴から、館山湾の洞窟遺跡は、約6000年前(縄文時代前期)の地球温暖化による海水面の上昇、いわゆる縄文海進の時にできた海食洞窟であると考えられていますが、地殻活動が累積した結果、比較的高い高度に形成されたため、縄文海進後の海退の時期が比較的早かったのでしょうか。館山市浜田の鉈切(なたぎり)洞窟遺跡(千葉県指定史跡「鉈切洞穴」)では、縄文時代前期末の十三菩提(じゅうさんぼだい)式土器がみつかっています。
しかしその本格的な使用は、縄文時代後期になってからのことで、鉈切洞窟遺跡と館山市沼の大寺山洞窟遺跡(館山市史跡「大寺山(おおてらやま)巌窟(がんくつ)墓」)では、縄文時代後期の良好な状態の骨角器(こっかくき)や、魚骨・貝・獣骨などの自然遺物が豊富に出土しています。
そして、千葉大学文学部考古学研究室を中心に、千葉県教育委員会・館山市教育委員会が発掘調査を行った大寺山洞窟では、縄文時代後期の包含層を約1mメートルの落盤層が覆い、その上に古墳時代の舟葬(しゅうそう)墓が形成されていることを確認しました。
これらのことから、館山湾の洞窟遺跡群は、縄文時代には基本的に生産・生活の場としての「生の空間」として使用され、古墳時代には洞窟墓として「死の空間」へと転換したと特徴づけることができますが、対岸の三浦半島の洞窟遺跡とは対照的に、弥生時代の遺物や遺構はみつかっていません。