わが国における洞窟遺跡研究の歴史は比較的新しく、大正7年(1918)に行われた富山県氷見(ひみ)市大境(おおざかい)洞窟の調査をきっかけに、それまでにない進展をみせるようになったといわれています。調査の結果、大境洞窟は大正11年に国の史跡に指定され、それ以降、徳島県、神奈川県の三浦半島、岩手県などで洞窟遺跡の調査が行われています。
房総半島における洞窟遺跡の調査は、大正12年9月1日におきた関東大震災が契機になりました。大地震により隆起した現在の勝浦市の守谷(もりや)で、大正13年(1924)8月に洞窟遺跡が発見されたことが研究の始まりとなりました。遺跡を発見したのは、後に騎馬民族国家という学説を打ちたてたことで著名な考古学者・江上波夫(1906~2002)氏で、当時は旧制浦和高等学校の生徒でした。以降、江上氏は、荒熊(あらくま)洞窟遺跡をはじめに、本寿寺(ほんじゅじ)洞窟遺跡、こうもり(蝙蝠)穴洞窟遺跡、弁天崎洞窟遺跡を次々に発見していきます。
翌大正13年、江上氏は東京帝国大学(今の東京大学)理学部人類学教室に、多数の土器・獣骨を持ち込み、同年11月2日、同氏の案内で同教室の小金井良精(よしきよ)・山崎直方・松村瞭(りょう)・甲野勇・八幡一郎の各氏が、荒熊・本寿寺・こうもり穴の各洞窟遺跡を踏査しました。同11月中旬には、内務省史跡調査員であった柴田常恵・田澤金吾の各氏らが、さらに翌12月には松村瞭・甲野勇・八幡一郎の各氏らにより、荒熊洞窟遺跡などが発掘調査され、土器・獣骨・骨角器等が採取されました。さらに昭和2年(1927)、江上波夫・増井経夫の両氏が、弁天崎・こうもり穴・本寿寺の各洞窟遺跡を発掘調査し、本寿寺洞窟遺跡で縄文土器・獣魚骨・人骨・貝斧などが出土しています。
しかし、守谷湾洞窟遺跡群の本格的な解明は、約70年後の平成11年~14年の間に千葉大学文学部考古学研究室が行った本格的な発掘調査まで待たなければなりませんでした。