館山市館山の館山城跡(現在の城山公園)の北に、北下台(ぼっけだい)という標高約10mの小丘があります。明治・大正時代には、館山公園(資料9参照)と呼ばれ、鏡カ浦(館山湾)を一望できる景勝地として親しまれていたところです。
昭和10年(1935)2月22日、海を埋め立て、港をつくる館山築港(ちっこう)工事に用いる土砂採取のため、北下台の西側部分が削平されていました。火薬を爆破し岩盤を破砕していたところ、横穴の壁面が崩れ落ちて、そのなかから人骨、勾玉(まがたま)、祝部(いわいべ)土器(土師器(はじき))、須恵器(すえき)、管玉(くだたま)、刀剣、金属の輪、獣骨がみつかりました。
この発掘記録『北下台発掘記』を残したのは、当時、安房水産学校嘱託教師であった大野太平(たへい)氏でした。大野氏は、『房総里見氏の研究』『安房先賢偉人伝』『房総通史』など、数々の研究成果を世に送り出した、房総郷土史の先覚です。
出土した地点は、館山小字北下台52番地で、崖を削り道路をつくったため残された部分が切り割りになり、洞窟の奥部があらわれたようです(資料12参照)。大野氏は、洞窟が南西に開口し、全長は10間~20間(約18~36m)と推測しています。
北下台の出土遺物としては、東京国立博物館所蔵の千葉県安房郡館山町館山小字北下台52番地出土の「碧玉管玉(へきぎょくくだたま)、瑪瑙勾玉(めのうまがたま)、銅釧(どうくしろ)、土師器鉢、須恵器壷」が知られていましたが、まさに『北下台発掘記』の記録と合致します。平成9年に大野氏の御遺族から館山市立博物館に、太平氏の関係資料を寄託いただいたことにより、はじめて東京国立博物館の北下台出土遺物の発見状況が明らかになりました。
『北下台発掘記』には、さらに昭和10年3月18日、梵鐘(ぼんしょう)などの金石文(きんせきぶん)史料を調査して、その成果を『房総金石文の研究』として発表した考古学者・篠崎四郎と、当時國學院大学の学生で後に東京国立博物館考古課長などを歴任する三木文雄氏が、大野氏と一緒に発掘し、屈葬(くっそう)された人骨が出土したことが記され、当日撮影した写真が残されています。
工事中に偶然発見された遺跡ですが、遺跡の立地と遺構の状況、古墳時代に墓として使用されたことを総合すると、北下台に海食洞窟遺跡があったと考えてよいと思います。ただし、北下台洞窟遺跡は、館山湾の洞窟遺跡を特徴づける高所にはありません(第3図参照)。遺跡周辺はすっかり削平されてしまったため確かなことがわからないのですが、周辺の地形から標高5~10mの間に立地していたと推測することができます。