大野太平記
昭和十年二月二十二日、朝は快晴であった。九時に水産学校へ出勤し、二時間授業したところへ、十一時頃、館山築港土木出張所の富田氏(富田嘉松氏の息)から電話で、目下工事中の北下臺から人骨及勾玉が出たから来て観てくれとの事であった。
早速行って富田氏に面會し、土木出張所長清水主殿氏にも會ひ、其状況を尋ね、実地を検分した。出土の場所は館山小字北下臺五十二番地の地で、種目は畑となってゐるが、丘陵の上であるから痩せた畑らしい。見たところでは殆ど工事のために荒されて、且つ中央を横断して道路を開墾するので、大部分は切り割りになってゐる。残れる部分は畑の一部分とその畦の雑木林のみである。
さて開墾工事は最初の目的は道路を造るのではなく、岩石土砂を採るのが主であって、その土砂岩石は海面の埋立に用ゐるのである。地質は第三紀の凝灰岩で所謂房州石の粗なるものである。
開墾の場所は北下臺の西麓の部分で、丘陵性の台地が下の水田に没人せんとする断層のやゝ上部の方(約十間位)である。断崖から十間許の上方であって、開墾工事を終わったらば、残る部分は耳のやうな形になって残るのみである。
此工事は館山築港工事であって、今や竣工せんとする時になってゐる(二月中に竣工の筈)。開墾は海岸の方面から直戦に切り進んだのである。幅は□□間、長さは□□間許で、予の行った時には海の方から十数間の長さを開墾したところであった。そこに人骨の出る横穴が露出されてゐた。
此穴のあることは、もとより工事関係の人達の豫め知ってゐたことではない。本月限り竣工の筈である工事であるから前程を急いで、ドンドン破壊してゐた。火薬を用ひて岩盤を破砕することも常用手段であった。すると火薬爆破の結果、横穴の岩壁(海に向った方の岩壁で、方角からは北部)が崩壊して、中に充塞してゐた土砂が崩れ落ち、其中に人骨が混じてゐたのである。
工夫等は之を犬か馬の骨と思ひ、何等の注意も拂はず、どしどしトロに積み載せて海へ運んだ。此の人骨の出始めたのは一昨日(二十日の日)からであったといふ。然るに今朝、勾玉一個を拾った人夫があったので、初めて気がつき、富田氏から予へ電話をかけたといふことである。その勾玉は土木請負樋口氏が預かって持って来て、予に渡された。
予の行った時には右の如くで、横穴は開墾の部分に当ってゐる所だけは、殆ど全部露出されてゐた。残った部分は、海の方から向って右手の方即ち西部の方に、僅々三尺餘りの部分だけが、手をつけずに残ってゐたに過ぎない。その三尺餘りの部分を発掘することにした。勿論此の横穴はそれだけに止まらないのである。
此穴は、想ふに、西南方面の断崖の横腹から通ってゐるので、その人□までは、十間乃至二十間位はあるかも知れない。併しそれは發掘する時期に達してゐないから、後日の事として、先づ發掘し得る部分、即ち開鑿の部分に当ってゐる、三尺餘の部分だけを注意して發掘する事にした。
そこで土木出張所の役人達も立會の上で、人夫を指揮して掘らせた。シャベルを用ふるにも注意させたが、成るべく素手を以て掘らせた。すると砂の中から人骨が続々と出てくる。併し完全なものは一つもない。頭蓋骨の天辺だけとか、大腿骨とか、その外は破片のみである。そのうちに円形の鍋尻のやうなものが現れて来た。お盆の底面のやうに見える。色は鼠色をしてゐて土器である。指先で周囲の土を取り去らせると、だんだんに見えて来る。何んとも知れないものである。そのうちにだんだん周囲の土を取り去ると、まるで大きな球のやうな影をしてゐる。注意して見ると壷形の土器で、横になって口を向ふにしてゐるのである。とうとうそっくり取り出した。それは立派な祝部土器の甕であった。形からいへば、坩形である。腹部の最も大なる所で直径一尺二三寸、口径は五寸許、而て底部は丸くて据わりが悪るく、いかに正しくして置いても、六十度位に傾くのである。轆轤を用ひたところが見えるから、須恵器に相違ないと思はれた。外面には斜線の並行した横持がある。内面はまだよく調査をしない。土砂のついたままにして置いた。
それから、もう少し掘り進ませたが、人骨の細かいものが出るのみで、別に珍しいものが出なかった。そして三尺餘りの部分も、これで大体掘り終ったのである。あとは工事に関係のない部分となるので、工事当局の人達も手をつける事は出来ない。またつける必要もないので止めた。
予は学校に授業が残ってゐるので歸校した(午後一時)。そのうちに雨が降り出したので、授業後行って見たいと思ったが止めた。富田氏からは電話で、發掘物を如何に始まするかの相談があった。当分学校の方に預かって置く事にした。午後四時頃、人夫数名が持って来た。土器は甕の外に、碗一個、破片のみである。勾玉一個の外に管玉一個(人夫ノ拾得セシモノ)があった。刀剣の腐蝕したもの(二片となってゐる。各片四五寸の長さ)二片、金属の輪(銅か鐡か不明。色黒)、人骨、獣骨(犬ノ如キモノゝ顎骨)等である。之を箱に納めて置いた。出土品は、其後は何も出なかったのことである。
尚注意すべきことは、此の横穴の横穴たることを知らずして、地主の尾賀名久五郎氏は、上部の岩石を切り出して、その跡へ屋敷から土砂を運んで捨てたとのことである。故に此穴の上部には岩盤がなく、雨水の侵入した所もあった筈である。而て、同氏は鍛冶職であったために、土砂の中へ金糞などが交ってゐたさうである。故に此の穴の土砂の中からも金糞が出たのである。金輪や刀剣の腐食したものも、或はその遺棄物であるかも知れない。併し發掘した人夫等の語る所では、人骨の出た所から一所に出たといってゐる。可考。
三月十八日、東京の篠崎四郎氏及國學院學生三本文雄氏と共に發掘を試む。人骨及獣骨出づ。獣骨は前に出でしと同じく、鋭き牙を有する下齶骨ナリ。人骨はやゝ完全に腰部の存在せるを認め、寫真に撮影す。屈葬の形なり。但し頭蓋骨などは認め得ず。骨は掘り出し、保存し置きしが、洞穴は元の如く土砂を入れ置きたり。掘りしは奥行五尺ばかりなり。なほ前途は遼遠なり。一時中止す。
四月十六日記
四月十四日午後十時、館山築港事務所主任清水氏より使の者来り。昨十三日、人夫の者洞穴に入り掘り試みたるに、人骨二体、副葬品土器刀剣類出土せり。只今御来車ありたしといふ。予は善導會館へ行く途中なりしかば、午後に行くべく返事し、善導會館に赴く。同人會主催の安房先賢偉人顕彰委員會に出席、午後三時辞して、築港事務所に赴く。出土品は事務所の一隅に保蔵せらる。左の如し。
○人骨二体ノ在リシ場所ハ、先日掘リシ所ヨリ、奥へ四五尺モ入リシ所ナリ。先ヅー体ハ、北枕ニテ仰臥ノ姿勢ヲトリ居リシモノノ如シ。頭骨ハ殆完全ニテアリシガ、中ニ充満シタル土砂ノ為二重量アリ。動カス時ニ、遂ニ破レテ二分セリト。其傍ニ土器一個(口径四五寸位。坩ナリ。完全)。直刀一本分(柄ハ青ク錆ビテ金色残レリ。渡金ノ残レルナリ。実質ハ銅ナリ)(刀身ハ七八寸モアリ。腐朽スレドモ旧形ナリ)アリ。一体ハ其ノ奥ヨリ出ズ。頭骨ハ見当ラズ。其他ノ骨ハ多ク出ヅ。傍ヨリ土器(二三個ラシ。前ノヨリ小サク、イロイロナリ。破損ス)、直刀ノオレタルモノ出ヅ。数片トナリ居リタリ。腐朽甚シ。碗一個アリ。又刀剣ノ外装飾アリシガ如キ薄キ銅ノ紙ノ如キモノアリ。ツバ(鍔)ノ如キモノー枚アリ。 腐朽甚シキモ、金色ノ残レルモノラ認ム。是等ハー個所ニアリシモノノ如シ。
予は洞穴の中を見たるに、人骨及土器の破片多くあり、皆一所より出でしといふ。前の二人分のものなりといふ。此の分だけは餘り参考にもなるまじくニ付、元のまゝ穴に納め(ムシロの上に集め載せて)、一先づ穴を埋め置かしむ。
近頃、此の墓穴に参詣するもの多くありて、香花を供へあり。見物人もありといふ。それ故、人夫は其人達に見せんとて堀りたりといふ。誠に困ったものなれど、致方なし。
昨十五日午後一時、予は本箱を持ち行きて、出土品を之に納め持ち歸らんとせしが、清水主任・津田氏・富田氏等は、洞穴の前にて法事を行ふ豫定なりと言はれしかば、予も参拝せんとて待ち居りしに、慈恩院・光巌寺・その他合せて六人の僧侶集會せられ、雨中風も加り険悪なる天候中にも拘はらず、傘をさしつゝ読経せられたり。五時頃終りて歸宅せり(出土品ヲ人レシ箱ハ、雨天ニツキ預ケ置キテカヘリタリ)。
資料12.北下臺發掘記(写・部分)
当館蔵