昭和24年(1949)1月26日に法隆寺金堂壁画が焼損したことは、国民に衝撃を与え、文化財保護体制の整備を要望する世論の高まりとなりました。翌年の昭和25年、議員立法により文化財保護法が制定されましたが、当初は、埋蔵文化財に関する規定はありませんでした。
昭和28年、東海汽船が勝山に遊園地・水族館・ヘルスセンターなどを開業しましたが、大黒山洞窟遺跡は、水族館の建設工事に先立つ土砂採取により発見されました。古墳時代後期の土師器(はじき)・須恵器(すえき)・鉄刀・鉄鏃(てつぞく)・玉類・人骨などが出土していますが、現在、遺物の所在はわかりません。
その一方で、昭和31年7月の赤山遺跡の調査を契機に、館山市では文化財保護の機運が急激に高まりました。同時に行われた予備調査により、館山市浜田の鉈切洞窟遺跡の重要性を認めた千葉県が、同年10月に早稲田大学、館山市とともに、地元の安房郷土研究会や当時の館山市立西岬中学校生徒の協力を得て、発掘調査や民俗調査など総合的な学術調査を実施しました。
鉈切洞窟遺跡の調査が終了した直後に、安房郷土研究会が館山市大寺山洞窟遺跡の調査を行い、この時すでに後に舟棺とされる舟形木棺の舳先、鉄製甲冑、直刀、玉類などが出土しています。対岸の三浦半島では、赤星直忠氏を中心に海食洞窟遺跡の調査研究が継続して進展しました。館山市鉈切洞窟遺跡と大寺山洞窟遺跡の調査は、三浦半島からの刺激を受けて行われたという一面もあったはずなのですが、急激に盛り上がった機運は急激にしぼみ、以降長い空白期を迎えることになります。
官幣大社安房神社に奉納された大巌院裏洞窟遺跡の縄文土器
戦前、官幣大社であった安房神社には様々な宝物が奉納されました。そのなかに、館山市大網の大巌院裏洞窟遺跡出土と伝えられる縄文土器があります。
残念ながら、どのように出土したのか情報は全くありませんが、大巌院裏の標高約20mの位置に、西向きに開口する洞窟があります。千葉県教育委員会の調査により、開口部の幅は2.5m、奥行き約14mの大きさであると報告されています。