館山市沼の大寺山(おおてらやま)洞窟遺跡は、館山湾を一望できる丘陵先端部にあり、地元で「沼の大寺(おおてら)」と呼ばれる総持院(そうじいん)境内の裏山に所在します。この遺跡は3つの洞窟からなり、西に向いて垂直に切り立った山裾に口を開けています。第1洞の前に立つと、天気のよい日には北の方角に、館山湾から神奈川県三浦半島の南端までを見渡すことができます。
この洞窟遺跡から海岸線までの距離は、現在は約500mありますが、元禄16年(1703)元禄地震で波打ち際の浅瀬が隆起し陸地となったことが古文書で確認されているため、江戸時代はじめの海岸線は大寺山洞窟遺跡から約200mの位置にあったと推測されています。このことから、洞窟が使用された縄文時代後期から古墳時代の海岸線は、大寺山洞窟遺跡がある海食崖(かいしょくがい)の近くにあったのではないかと推測されています。
3つの洞窟(第10図参照)は、第1洞から第3洞に向かって標高が下がっていて、各洞窟とも開口部から内部に向かってわずかに下降しているという特徴があります。
第1洞は、標高約30mの位置にあり、高い標高にあることが特徴の館山湾の洞窟遺跡のなかでも、最も高い位置にあります。
開口(かいこう)部の大きさが幅5.5m・高さ4m、中央部で幅6m・高さ2.7m、奥行きが29mと規模の大きな洞窟です。洞窟の入口から奥をみて右の半分が発掘され、古墳時代の舟葬遺構が確認され、その下には落盤層がありました。洞窟の入口部分を掘り下げたところ、落盤層の下に縄文時代後期の遺物を含む層が確認されましたが、舟葬遺構の下層は発掘されていません。
第2洞は、標高約28mの高さにあり、土砂や礫が厚く堆積していたため正確な規模が不明です。間口の幅は6mです。古墳時代の遺物は確認されず、縄文時代中・後期の土器が出土しています。
第3洞は、標高約27.5mに位置し、間口部は標高6m高さ4mの大きさです。奥行きは13.6mまで確認されましたが、土砂が天井近くまで厚く堆積していたためそれ以上は確認されませんでした。上層で古墳時代の遺物を含む層が確認されましたが、洞窟入口部では、下層の縄文時代後期を中心とする厚く堆積した灰層を中心に調査が行われました。
大寺山洞窟遺跡は、この遺跡に隣接した赤山遺跡で昭和31年(1956)に行われた発掘調査を契機に高まった文化財保護の機運の高まりのなかで、鉈切(なたぎり)洞窟遺跡とともに同年調査が行われました。当時の調査記録はなく、発掘時の写真が残されているのみですが、出土遺物は総持院に保管されていました。それらが昭和47年に再評価され、「大寺山巌窟墓(がんくつぼ)及び出土品等」という名称で、館山市史跡及び館山市有形文化財として保存活用されてきました。出土品には、土師器(はじき)・須恵器(すえき)の土器、三角板革綴短甲(かわとじたんこう)、横矧板鋲留短甲(よこはぎいたびょうどめたんこう)、鉄鏃(てつぞく)のほか、後に舟棺とされた舟形の棺の舳先部分などがあります。
そして、昭和31年以降途絶えていた館山湾の洞窟遺跡の解明が、長い空白期を経て平成4年(1992)に再開されました。千葉大学文学部考古学研究室が、同年に大寺山洞窟遺跡の測量調査と房総半島の洞窟遺跡の分布調査を行い、以後、麻生優氏、河原純之氏、岡本東三氏らの指導のもと、平成5~10年に7次にわたる大寺山洞窟遺跡の調査を行いました。平成8~10年の3ヵ年は、千葉大学と千葉県教育委員会、館山市教育委員会の3者が大寺山洞窟遺跡調査会を組織し、国庫補助事業による発掘調査を実施しました。
3つの洞窟のうち、第1洞でみつかった12基以上の舟棺は、丸木舟を棺に用いた「舟葬」という葬送儀礼を確認できたはじめての例です。いずれの舟棺も、舳先(へさき)を洞窟の入口(西側)に向けていたのが印象的でした。当時は、入口近くまで海が迫っていたと考えられています。
資料19 1956年大寺山洞窟遺跡出土遺物
(以上、赤星直忠博士文化財資料館蔵)