大寺山洞窟遺跡の舟葬墓に代表されるように、館山湾の洞窟遺跡は、古墳時代の墓制の多様性をあらわしています。また、館山市が大地震のたびに隆起していることも示す自然遺産でもあります。海を通じての他地域との交流により展開をしていった館山市の歴史と、土地の成り立ちへの理解を深めることができる地域資源としての活用が望まれています。
房総半島の洞窟遺跡研究には、洞窟と集落の関係が把握できないという大きな課題があります。大寺山洞窟遺跡は、古墳時代の200年間、一定の力を持った集団が継続して墓所として利用しましたが、その集団の集落や生業については把握できていません。
研究を行う上で、非常に近い位置にありながら、今まで三浦半島の洞窟遺跡との比較はあまりされてきませんでした。その理由として、昭和30年代以降、房総半島で長い研究の空白期があったこと。館山湾岸の洞窟遺跡が盛んに使われた縄文時代後期の遺跡が、三浦半島で確認されていなかったこと。一方で、三浦半島で弥生時代中期以降に洞窟が盛んに使用されましたが、館山湾では使用されていないことなどが挙げられます。しかし、房総半島の大寺山洞窟遺跡・こうもり穴洞窟遺跡、三浦半島の間口(まぐち)東遺跡などの調査成果により、はじめて両半島の共通性や相違性を比較することができる素地が整いました。三浦半島の成果を学びながら、館山の歴史研究を進化させていく必要があります。