川のせせらぎが聞こえる山の集落「畑(はた)」

畑地域は豊房地区の奥、南房総市千倉町と白浜町に接する山間部に位置します。平家の落人伝説もある静かな集落ですが、平成22年4月に広域農道安房グリーンラインが開通し、光ケーブルのサービスの提供などのインフラ整備が進んでいます。長尾川の上流域に位置し、豊かな水資源に恵まれていますが、川床が低いため、先人の知恵と工夫により、明治時代に灌漑用水路が敷設され、現在でも地区内に張り巡らされた用水路が水をたたえ流れています。懐かしいやすらぎの集落を探訪しましょう。

 上ノ台(うえのだい)エリア

(1)長尾三(ながおさん)神社

 50余戸での維持が困難のため、大正9年(1920)に長尾神社・八幡神社・八雲神社の3社の合祀(ごうし)(統合)が決まり、翌10年、長尾神社の地に新社殿を造営し長尾三神社と名づけられた。

合祀記念碑:合祀の経緯が記されている。撰文(せんぶん)(文章)は豊房村鈴木周太郎、石工は田中安治郎。山川市之助、石井庄左衛門など70余名の名前が並ぶ。
水向鉢:明治39年(1906)2月吉日。当氏子中。外 石井與助。
力石:自然石2コ。若者の力自慢や、仲間として迎える通過儀礼や成人儀礼で試された。「明治25年(1892)8月、山川斎治」と彫られた44貫目のものと45貫目の丸石。

(2)畑小学校跡地

 昭和47年(1972)、児童数の減少により豊房小学校に統合され廃校となった。

(3)旧道路傍の石仏

地蔵菩薩:「安永10年(1781)丑天4月20日 願主文治郎」
馬頭(ばとう)観音: 「明治12年(1879)10月23日。施主 石井久平・山川佐治衛門・山川金衛門」

(4)川回(かわまわ)し跡

 明治時代の川回し(河川改修)の跡。曲がりくねった川筋を直線にするため隧道(ずいどう)(トンネル)を掘ってつなげた。跡地を水田とした。

(5)石井家住宅 ※個人の住宅のため、見学には許可が必要です。

 安房地方に特徴的な分棟型(ぶんとうがた)の民家。建築年代は17世紀後半と推定。平成2年3月16日千葉県指定有形文化財建造物に指定。現在、元の所在地に解体保存されている。市立博物館本館に建築当初のイメージを再現展示している。

(6)灌漑水路開掘紀念碑

 1号地(明治13・14年開墾地)と2号地(明治32年開墾地)との間で、旱天(かんてん)(日照り)の時は余った田の水を融通することを取り決め、石井済治家の田より山川佐一家の田まで水路を開掘したという記録。大正15年(1926)5月5日建立。請負人は神余佐藤甚吉。

 小田ノ台(おだのだい)エリア

(7)報恩碑 ※個人の墓地です。許可が必要です。

 畑地区開拓の歴史を伝える碑。古老から聞いた話では、今から1000年以上前に、新悟、萬悟、平作、野庄の4人がこの地を拓いた。野庄が石井家の先祖である。生れは遠く阿波国造(あわくにのみやつこ)大伴直(おおとものあたい)大瀧孫麻美知氏。明治29年(1896)に石井金治が元長尾藩士で漢学者の恩田城山に撰文を、熊澤直見(旧長尾藩出身の書家)に篆額(てんがく)(題字)や文字を、俵光石に彫りを頼んで建立したとある。

(8)大六天様

 大六天は第六天とも書く。祟(たた)る神と恐れられたが、やがて仏教の守護神として信仰された。この地の大六天には河童(かっぱ)の伝承がある。以前はここに川の流れがあり、河童が人を川に引き込むなどの悪さをしたので祀(まつ)るようになったそうである。

(9)小田のお堂

出羽三山碑:出羽三山とは山形県の月山(がっさん)、羽黒山(はぐろさん)、湯殿山(ゆどのさん)の総称で、それぞれ月山神社、出羽神社、湯殿山神社の三社が鎮座(ちんざ)。この碑は寛政12年(1800)に山川作兵衛たちが参拝を成し遂げた記念。百観音霊場(西国三十三所、坂東三十三所、秩父三十四所)も巡礼している。
石仏:如意輪(にょいりん)観音像等の墓石がいくつかある。享保9年(1724)のものも。

(10)川のプール

 50年程前には畑小学校にプールがなかった。そこで子供たちのためにPTAや村人が労力奉仕により、川を堰(せ)き止めたコンクリート製の25m プールを作った。

(11)庚申山(こうしんやま)

庚申講碑:下に三猿を置く石造青面金剛(しょうめんこんごう)像が祀られ、この地区で庚申信仰が盛んであったことが窺われる。
富士講碑:庚申碑に並んで浅間(せんげん)様が祀られている。安房に多い山包講(やまつつみこう)。「富士講 明治5年(1872)壬申2月吉日 村役人石井常右衛門、同瀬戸村山川仙兵衛、先達慶行真月(青木甚左衛門)、世話人石井長左門・・。長狹郡仲居村石工儀助」

(12)八幡神社跡

 藪に埋もれる手水鉢、石段、イチョウが名残をとどめている。

 向台(むかいだい)エリア

(13)どうめの滝

 長尾川の源流といえるこの流域は水流が豊かである。せせらぎの音が絶えることがない。季節によって滝から水煙が高く立ち上り、それを見た村人たちは、河童が火を燃していると噂したという。また、寒い日に河童が火を貰いに来たという言い伝えもある。知る人は知る隠れポイント。

(14)瑞龍院(ずいりゅういん)  ※参拝は事前の許可が必要です。

 天正5年(1577)開創。猿鹿山(えんろくざん)瑞龍院。開基(かいき)は里見義弘。瑞龍院は里見義弘の院号。開山は角岩麟藝(かくがんりんげい)大和尚。中興八世の禅海慧東(ぜんかいえとう)大和尚のとき、本堂を再建し、併せて仏具類を新調した。
開基里見義弘夫妻の位牌:義弘の妻は小弓公方足利義明の娘、義頼の母、鎌倉太平寺の住職青岳尼(しょうがくに)とされる。法号瑞龍院殿在天高存大居士 知(智)光院殿高(洪)嶽梵長大姉。( )内の文字は他の資料。
木造里見義弘公像:文化12年(1815)10月、八世住職慧東により造立されたが、古いものは頭部のみ現存。玉眼(ぎょくがん)。
大殿再建(さいこん)棟札(むなふだ):八世慧東が本堂を再建したときの棟札。「奉再建大殿一宇 當院八世慧東叟 寛政九(1797)丁巳秋夷則(いそく)大吉日」とある。裏面には名主山川作兵衛、組頭石井庄左衛門などの名が見られる。
大鏧(だいきん):法要の際打ち鳴らす内陣の鳴り物。「房州畑村鹿苑山瑞龍禅院八世慧東代 享和二壬戌三月祥日」との銘がある。
喚鐘(かんしょう):法要の開始を告げる鐘で、文政8年(1825)、八世慧東が江戸神田の鋳物師(いもじ)西村和泉守藤原政平に依頼して作成。瑞龍院再興の経緯が記されている。
伊八の竜:内陣欄間(らんま)を飾る彫り物。1808年初代伊八(58歳)の作。裏面に「文化五辰年霜月吉日、當院中興八世慧東代、彫工長狹郡下打墨住、武志伊八良信由作 弟子森久八」とある。脇陣の彫刻は別人の作と思われる。
石井平雄句碑:「精舎(しょうじゃ)にのぼりて秋声をきく 澄かきりすむや河鹿のゆふ流(ながれ)」。石井平雄は宇門という南房総市平館の医者。井上杉長(さんちょう)の門人として俳諧や絵にも長じていた。明治33年(1900)、平雄の孫が建立。
出羽三山碑:出羽三山は修験道の山岳信仰の霊山で、この碑は参拝を成し遂げた記念に、天保13年(1842)8月に建てられたもの。
如来坐像:上半身が欠失している像。残存の部分の形状から大日如来像と思われる。
延命地蔵菩薩坐像:趺座(けつざ)(あぐら)を組み左足を前に垂下(すいか)する延命地蔵の形。「文政11年(1828)戊子11月楨日造立之」。与右衛門母、惣兵衛妻、与左衛門妻、伝七妻など向台地区の女性の名が刻まれている。
歴代住職の墓:裏山の向山墓地に向って険しい道を進むと、歴代住職の墓所が2箇所ある。手前の墓所には、中興八世慧東の無縫塔(むほうとう)を始め13世までの墓がある。無縫塔は、僧侶の墓に使われる石塔。塔身が卵形なので卵塔(らんとう)とも呼ばれる。一般に墓場のことを卵塔場(らんとうば)ともいう。

(15)伝里見義弘夫妻供養塔

 向山墓地の無縫塔8基が並ぶ左端に宝篋印塔(ほうきょういんとう)が2基あり、里見義弘夫妻の供養塔、あるいは分骨墓ともいわれている。片方には「道□?妙阿禅尼 天文25年(1556年=弘治2年)」の銘が読み取れるため、別人の供養塔か逆修塔との説もある。また地元では「髪塚」「ラントウバ」とも呼ばれる。

(16)八雲神社跡

 里見義弘の供養塔の奥、楠の木の先が八雲神社の跡地。

 越地原(こえちはら)エリア

(17)越地原観音堂

 越地原(こえちはら=ケイジッパラ)のお堂とも。現在は祭礼等も行なわれていないが、安房の観音の御開帳の干支である丑や午歳の仏具があることから、昔は地区の人々の篤い信仰をあつめていたことがわかる。
鰐口(わにぐち):「観音堂 安永3(1774)午2月」
双盤(そうばん):「宝暦7年(1757)丑7月日 房州安房郡畑村内越次原 観音堂若衆中」
力石:自然丸石3コ。手をかける窪みがある。
手水石:「漱盤 文政8(1825)酉年9月吉願日 願主佐吉 當台中。
墓石:堂守の僧侶のものと思われる無縫塔「元文6(1741)酉年 清山知浄上座品位」や「天保9(1838)戌天 空心沙彌(しゃみ)位」などの墓石が散在する。


監修 館山市立博物館

竹原周辺

安房地方のくびれにある竹原は、古くから内房と外房を行き来する道が通り抜ける。道と暮らしの関わりを訪ねてみましょう。

国道エリア

(1) 医王寺(薗)

 真言宗のお寺。参道に文久元年(1861)の哀牛碑がある。道沿いでよくみかける馬頭観音は運送馬や農耕馬の健康や冥福を祈って建てられるが、牛の冥福を祈るために牛頭観音の文字が刻まれることがある。この碑も同様に牛の供養のためのもの。境内には馬に乗った石造の菩薩像がある。馬乗りの馬頭観音か、あるいは養蚕の守護神である馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)らしい。また根本家の墓地に、正徳元年(1711)の万石騒動で処刑された三義民のひとり、薗村名主五左衛門の墓がある。

(2) 道標(薗)

 国道横の崖下に六地蔵を刻んだ道標がある。ここは北西が府中、西が北条・館山、東南が宇田坂を越えて千倉、東北が加茂坂を越えて和田方面へ行く交差点にあたる。正徳4年(1714)に地元の念仏講と巡礼講の人々が建てたもので、ここから館山まで1里29町、松田(和田町)まで1里20町とある。

(3) 伊豆箱根両所神社(水玉)

 伊豆山権現(熱海市)と箱根権現(箱根町)を祀っている。ともに源頼朝以来、関東鎮護の神として武家の信仰をうけていた神だが、それを水玉へ誰がいつ頃に分けてきたのかは不明。当社には歌舞伎興行をした時の額が残されている。明治頃までは河原で田舎芝居が行なわれていたそうである。社殿が茅葺きになっているが、いかにも村の鎮守といったこうした姿は、市内ではもうほとんど見ることができなくなっている。

田村・相賀・横枕エリア

(4) 春光寺(田村)

 曹洞宗のお寺。北条藩主の初代屋代忠正が室の昌泉院の供養のために承応3年(1654)に建てたとされるが、中世の宝篋印塔が数基分あり、それ以前からあった寺のようである。屋代家三代(忠正・忠興・忠位)の菩提を弔っているが、裏山山頂に大型の墓石があり、中央の長生院殿とあるのは、二代目屋代正興の奥方の墓である。

(5) 明星山城跡(田村)

 春光寺裏山の明星山が戦国時代の城跡と伝えられ、鎌倉時代の多々良庄(富浦町)の御家人多々良氏の子孫である薦野氏の居城とされる。戦国時代に薦野神五郎時盛の娘が里見義弘の側室となって頼俊を生み、頼俊は薦野家を継いで、慶長年間は里見一門として、竹原を中心に2500石を知行した。薦野頼俊は家臣ともども館山落城のときに討ち死にしたという伝説もある。明星山城は内房と外房をつなぐ道を管理する役割があったと考えられる。

(6) 光堂(田村)

 吉田山光堂といって、戦国時代の天文21年(1552)に里見氏の家臣吉田下野守が再興している。本尊の阿弥陀如来像もその時期のもの。境内のビャクシンの下にある宝篋印塔も塔身に像を浮き彫りにした戦国時代のもので、天文の次の「弘治」の年号が確認されている。

(7) 地蔵堂(相賀)

 本尊の地蔵菩薩立像は鎌倉時代中頃のもので、かなりの秀作。堂内には近くの畑から移された、室町時代の石造の虚空蔵菩薩像が安置されている。薦野氏と関係のある堂らしい。

(8) 加茂坂旧道(相賀)

 細い尾根を上って丘陵を越えると加茂(丸山町)へ出る。明治10年(1877)に現在の国道の大井の切割ができるまでは、この道が本通りだった。尾根の途中には天明3年(1783)の道標があり、「是より右 那古道/是より左 清澄道」とある。少し先の三叉路にも文政5年(1822)の道標があったが、現在市立博物館で展示中。またこの道の途中に、光海という行者の万治2年(1659)の墓があるらしい。

(9) 松葉堂(横枕)

 加茂坂を越えてきて府中(三芳村)まで行く道がお堂の前を通っていたが、道に面して祀られている石宮がドウロクジンと呼ばれている。道陸神と書くもので、道祖神と同じ。道を守る神である。石宮の中には仏像を浮き彫りにした戦国時代の宝篋印塔の塔身が入っている。

田辺エリア

(10) ツナツリ(横枕)

 八坂神社の階段下にツナツリが行なわれていた。綱吊りと書くが、ここでは作りかけのゾウリ・タワシ・サンダワラを吊していた。これは村境に吊るして、そこから村のなかには疫病や災いが入らないように祈った魔除けの風習である。横枕の人々が田辺との境に吊したもの。北側の滝ノ谷との境にも吊してあったが、どちらも最近見られなくなった。

(11) 三山碑群(田辺)

 出羽三山と呼ばれる湯殿山・月山・羽黒山(秋田県)へ登山して、三山へ参拝修行した記念に建てた碑。田辺の人々が三山講というグループをつくって資金を募り、参拝に行っていたことがわかる。もっとも古い碑が享保8年(1723)で、以後は寛延4年(1751)・寛政10年(1798)・文化13年(1816)・天保12年(1841)・文久2年(1862)・平成3年(1991)の7基がある。ほかに明治33年(1900)の坂東・秩父・四国の百観音巡礼をした記念碑もある。

(12) 日枝神社(田辺)

 昔は今宮山王権現といって、里見氏が稲村城の鬼門守護のために移してきたという。社前の直線道路は馬場で、大正時代までは競馬会が行なわれていた。鶴谷八幡宮の犬狩神事としてはじめられた武芸神事が、江戸時代に竹原へ移り、10月9日・10日の例祭の日に二頭ひと組みで速さを競う競馬になったという。社前に御神木とあるのはビャクシンで、もとは山上にあって漁師のヤマアテにされた古木だったが、百五十年前の落雷で枯木となって社前の三叉路に移され、虫送りの行事に利用されてきた。境内には文政13年(1830)の手水石、慶応2年(1866)の石灯籠がある。また神号額は明治32年(1899)に後藤義光の弟子で竹原出身の後藤義久が彫刻したもの。

(13) 駒止め地蔵(田辺)

 日枝神社の競馬のゴール地点から少し先になる位置にあって、馬をここで止めるのだという。かつてここで落馬死した乗り手の供養をしているともいう。


監修 館山市立博物館

大井・真野

八幡の祭に神輿を出す古社手力雄神社や古墳時代の横穴墓がある大井は平安時代からある地名で、隣郷には中世の仏像を祀る真野寺もある。古代からの歴史が連綿と続く大井と真野を探訪しよう。

大井(おおい)二区エリア

(1) 血出石(ちでいし)

 コンクリートの上に乗せられたふたつの房州石を地元ではこう呼んでいる。城山西側の田の中に立っていたもので、もとは置石でなく地中から生えていた石だったという。触れると血が染み出てくるとか、むかし石を動かして祟りがあったという話が残っている。

(2) 大井城跡

 城山(しろやま)とよばれ、周囲には要害・根小屋・城の内などの屋号がある。北から南へ5つの広い曲輪がまっすぐに続く直線連郭式の城郭で、周囲に数段の腰曲輪と中央にふたつの堀切があり、二の郭には物見櫓跡と伝えられる台地が中央にある。三の郭とは土橋でつながり、城跡の南端は切割の作場道が横断している。主郭の山頂には若宮八幡が祀られている。大井氏が居城にしたと伝えられている。

(7) 手力雄(たぢからお)神社

 神話で天岩戸を引き開けたという天手力雄命が祭神。大井大明神と呼ばれ、里見氏や徳川氏から43石の社領を与えられていた。本殿は江戸中期、宝永6年(1709)の建築で県指定文化財。部分的に里見義頼が造営した天正年間の特色がみられる。社前の大杉は樹齢700年の御神木で市の天然記念物。境内には安永7年(1778)の石灯篭、文政9年(1826)の手水石などが奉納され、拝殿には明治3年(1870)の俳諧額、明治44年(1911)後藤義信作の天岩戸神話の彫刻額などがある。社務所隣の池は船田池あるいは神舟池という。古来八幡の祭に神輿を出している。

(8) 石井昌道碑

 幕末から明治初期の手力雄神社神主の碑。江戸の昌平黌で学んだころ勤皇の志士たちと交わっている。帰郷後家塾を開いて近隣の子弟の教育にあたった。慶応4年(1868)に官軍に抵抗する榎本武揚や請西藩主などが安房に入国するなど治安が不安定になったことから、大総督府に陳情して治安維持部隊「房陽神風隊」を結成、安房国内の神職・名主・医師を中心に自己資金によって運営された。明治29年没。79歳。

(9) 止止山鼻(とどやまのはな)大岩屋跡

 手力雄神社裏の止止山丘陵端(記念碑の場所)に、むかし岩穴があったという。この碑を建てたタロベイ家は、かつて手力雄神社の別当を勤める円行寺という修験であったことが、大井大明神止止山鼻大岩屋旧跡記念再興碑に書かれている。

(10) 山崎の観音様

 昔はヤグラの中で観音様のお篭りが行われていたという。中世の石仏(如意輪観音坐像・大日如来坐像)が祀られている。

(11) 薬師堂

 山本から大井にいたる地域を巡礼する安房東口十二薬師の第四番札所である。御詠歌は「み仏に ならぶ月日の影うつる 大井の水の心もたれん」。ダイダ家の墓に、元禄年間に幕府の御用木を運搬する仕事を請け負い、日の丸の旗を船印として使用したことが書かれている。

千倉街道・真野(まの)エリア

(3) 燈籠塚

 千倉街道沿いに馬頭観音を祀る辻の南側、小高い平地にいくつかの塚が確認できる。燈籠塚と呼ばれ、古墳時代の円墳とされている。昭和初期に5基の円墳が報告され、勾玉や管玉、黒曜石の鏃、土器が確認されている。千倉寄りにも鹿島塚とよばれる場所がある。

(4) バア神

 千倉街道から大井へ下りる三叉路に、縄文時代の石棒を祀った石宮がある。明治30年代までは宇田坂寄りに茶店があったという。

(5) 宇田坂の延命地蔵尊

 千倉街道を宇田へ下りる途中に安永10年(1781)に清水村で建てた延命地蔵尊があり、「東千倉道・西那古道」という道標になっている。

(6) 真野寺

 安房国札観音の二十五番札所で、千葉県指定文化財で平安時代後期作の千手観音菩薩立像が本尊。行道面をつけているので、覆面千手観音と呼ばれている。がむしろ、「真野の大黒」の名で知られる寺。大黒天像も県の指定文化財で、二十八部衆像とともに南北朝時代の作。摩利支天像には建武2年(1335)に久保郷の住人が奉納したと書かれている。石段下には享保5年(1720)に14人の女性たちが奉納した六地蔵があり、堂内には文化7年(1810)の鰐口が奉納されている。そのほか境内のヤグラのなかには中世の地蔵尊像や五輪塔の残欠がある。

大井(おおい)一区エリア

(12) 大清水(おおしみず)

 このきれいな清水は、お馬洗の池とか大井戸と呼ばれていた清水で、大井の名はここから始まったと言い伝えられていた。石宮は水神。

(13) 阿弥陀堂

 里見氏のいた室町時代末につくられた阿弥陀如来坐像を本尊にしている。墓地には中世の五輪塔があるほか、寛政8年(1796)に加茂坂でおきた虚無僧殺害事件の被害者至竜の墓があるという。集会所裏には大井若者中が奉納した力石(40貫・53貫)が置かれている。

(14) 角田横穴群

 古墳時代の横穴墓が群をなしているところで、約50基が確認されている。遺体を入れる石棺を掘り込んだ横穴墓も数基ある。

(15) 瓢箪淵の廻国供養塔

 日本全国の廻国巡礼をしていた河内国蚊谷振郷(大阪府八尾市)の安蔵という人の廻国供養塔。巡礼の途中でここの瓢箪淵に落ちて死んだと伝えられている。嘉永5年(1852)のもので、三河や信濃・出羽・美濃・常陸・備後などの人々の名が並んでいる。同じ巡礼仲間であろうか。この道は加茂坂を越える旧道で、幕末の馬頭観音も並んでいる。岩肌に並んで開いている穴は、昭和30年代まで牛をつないでいたもの。


監修 館山市立博物館
作図:愛沢彰子

九重

九重は、中世の文化財の宝庫。横穴古墳やヤグラなどを中心に、豪族たちの活動跡をたどりながら歩いてみましょう。

安東エリア

(1) 高田寺

 里見家の高田姫が開祖といわれ、近くの山の中に高田姫の墓と伝えられる五輪塔がある。五輪塔とは、上から空輪・風輪・火輪・水輪・地輪の5つの部分からなる、中世特有の供養塔。また高田姫の双児をまつったという二子塚のある山が、西側の二子区にあって、ここの地名の由来にも関係している。

(2) 六地蔵

 江戸時代の寛保3年(1743)の銘が入った六地蔵や、明治から昭和にかけての馬頭観音など、石造物がいくつかある。

(3) 熊野神社

 境内には、天保2年(1831)の銘が入った手水石や、大正大震災の記念碑などがある。狛犬は明治14年(1881)奉納で、彫刻は長須賀の石勝。また社殿の裏山には、複数の横穴がある。

(4) 薬師堂

 本尊は、室町時代作の木造薬師如来坐像。境内の墓地には、出羽三山の碑や、大正8年(1919)に台湾で殉職した、台湾台東巡査小倉嘉一の墓などがある。

水岡エリアA(旧清水村)

(5) 内田ヤグラと横穴

 ヤグラとは、鎌倉時代の武士の墓。横穴やヤグラが多い九重地区では、個人の宅地内にも見られることがある。鶴谷さんの家の裏山には5基の横穴がある。そのうち1基はヤグラとして利用されたらしく、奥の壁面に五輪塔の浮き彫りがある。

(6) 数学師・高見桂蔵記念碑

 高見桂蔵は、享和2年(1802)に清水村で生まれた。同郷の算学者清水豊明から数学を学んだあと、豊明について江戸に行き、関流の免許を手に入れた。郷里に帰って多くの子弟を育て、鶴ヶ谷八幡宮や鴨川の大山不動などに算額を奉納したといわれる。明治13年(1880)83才で没。量科亭貞明という号が記された墓が、蓮蔵寺の墓地にある。この記念碑は昭和11年(1936)に建てられた。

(7) 蓮蔵寺

 曹洞宗の寺院で、本尊は南北朝時代作の木造釈迦如来坐像。境内には宝篋印塔の断石も見られる。宝篋印塔は、五輪塔とならんで中世を代表する供養塔で、基礎・塔身・笠・相輪の各部からなるもの。本堂の向拝欄間には、国分の安西 吾楼による龍の彫刻がある。また入口の坂道脇には、(6)の高見桂蔵記念碑や、明和元年(1764)の石造地蔵菩薩像、鋸山の住職によって別伝和尚の伝記が記された寛政3年(1791)の法華千部塔、明治5年(1872)の石造千手観音像、明治25年(1892)の馬牛塚などがある。

(8) 天満神社

 天保10年(1839)の手水石、翌11年の狛犬がある。狛犬は長須賀の鈴木伊三郎作。この他、境内横に大正時代の出羽三山碑や伊勢参宮碑などがある。

(9) 内田横穴群

 蓮蔵寺背後の山には、ヤグラ1基を含む10数基の横穴がある。穴の中に五輪塔や宝篋印塔の断石も見られる。ヤグラには、古墳時代の横穴を改造したものがよくあるが、ここのは天井の形などからみて、明らかに当初からヤグラとして作られたもの。

(10) 尾根沿いの旧道

 トンネル手前から左にそれると、紫雲寺方向に抜ける尾根沿いの旧道に出る(現在は山道)。旧道に入ってすぐの道の両脇に江戸時代末の出羽三山碑(安永6年・文政3年・天保7年の3基)など、石造物がいくつか見られる。

水岡エリアB(旧北片岡村)

(11) 紫雲寺

 曹洞宗の寺院。本堂裏手の壁面にヤグラがあり、五輪塔や宝篋印塔の断石が散在している。西側の墓地にも宝篋印塔の笠などの断石が見られる。東側の墓地には、正徳元年(1711)に起きた万石騒動に参画して追放処分になった、北片岡村名主庄右衛門の墓がある。

(12) 水岡ヤグラ

 壁面に17基もの五輪塔が浮き彫りにされた規模の大きなヤグラ1基(館山市指定文化財)と、周辺にもいくつか横穴がある。ヤグラは武家の中心地だった鎌倉によく見られるもの。ここの文化が、対岸の安房にも強い影響を与えていたと考えられる。

(13) 千手院(安東)

 本堂は尾根の先端にほられたヤグラ。内部に本尊の石造千手観音坐像と、文和2年(1353)銘の石造地蔵菩薩坐像、中世の日待供養塔、五輪塔の断石などがある。このヤグラのちょうど真上に、南北朝時代と思われる宝篋印塔が完全な形で立っている。境内にも、五輪塔を浮き彫りにしたヤグラがもう1基ある。本堂の手前に、江戸時代の天保4年(1833)銘の手水石があるが、大乗妙典廻国と書かれ、巡礼記念に奉納したものらしい。石造地蔵菩薩座像と宝篋印塔は、館山市指定文化財。


監修 館山市立博物館

館野地区腰越・広瀬 

古代の安房国府や戦国時代の稲村城に隣接し、中世には荘園となった館野地区の腰越と広瀬。中世の経済活動の痕跡や鎌倉文化との結びつきを中心に、古代から連綿と続いた歴史を探訪しよう。

狐塚(きつねづか)エリア

(1) 狐塚(きつねづか)

 腰越青年館の横に小さな高まりがある。狐塚と呼ばれる塚だが、かつてはもっと大きな塚だった。このあたりの地名も狐塚という。昔はここから北へ向かっていくつもの塚が並んでいたのだというが、ほとんどが畑として削り取られてしまった。土地の人がむかしこの青年館横の塚を掘ったところ何も出てこなかったそうである。また狐塚に関する地元の伝説に、戦国時代に里見義豊がおこした天文の内乱のとき、義豊と義堯のいとこ同士が犬掛で大合戦をしたあと、最後の決戦の地になったと伝えられている。

(2) いなり様(狐塚)

 ここは広瀬の字北狐塚といい、この南側に字南狐塚があって、腰越の字狐塚に続いている。この塚は「いなり(稲荷)様」と呼ばれるが、腰越から続く狐塚のひとつであるという。砂丘の先端に立地し、塚の周囲では土師器・須恵器の破片が確認されており、古墳時代の遺跡と考えられる。

広瀬(ひろせ)エリア

(3) 八幡神社

 八雲神社(牛頭天王)と湯沢神社(湯沢権現)を合祀している。境内には中世宝篋印塔の笠石がみられる。ほかに阿弥陀如来の種字カーンを刻んだ文化4年(1807)の念仏供養塔、寛保元年(1741)の青面金剛像の庚申塔、山三講のマークが入った水向けのある浅間祠などが、戦後に区内各地から移されているほか、2個の力石と広瀬の住吉屋夫人が奉納した天保9年(1838)の手水石がある。

(4) 釈迦寺

 臨済宗の寺で万徳山釈迦寺といい、江戸初期の元和年間に広瀬の徳山居士という人物が開基したという。開山は道硯和尚。稲地区玉龍院の末寺だった。境内には享保5年(1720)に観音講仲間が造立した如意輪観音像、享保16年(1731)の地蔵尊、安永8年(1779)の三界万霊塔がある。本堂前にある塔は鎮譲謙東堂大和尚の供養塔で、明治23年(1890)に建てられたもの。文を書いたのは北条にいた学者の森岡半圭。この和尚は尾張国丹羽郡の人で、明治17年(1884)の火災で焼失したこの寺を住職として再興したことから、檀家・信者の感謝の気持ちで建てられた。

(5) 杉間の堂(祖師堂)

 広瀬の字杉間にある日蓮宗のお堂。南無妙法蓮華経の題目塔は祖師堂三世が明治2年(1869)に建立。明治12年の唱題一千部之塔は西浦賀の人の奉納。館山城跡で掘り出されたという観音菩薩像も祀られている。この堂の裏に見える山すその集落を市場といい、右手の田を字戸井場という。戸井場は問場のことで、中世の運送業者がいた所のこと。この周辺が中世の荘園だった頃に流通の中心地だったことが考えられる。また奈良の都から出土した735年の年貢の荷札(木簡)にすでに「安房国広湍(ひろせ)郷」の地名がある。

(6) 林信太郎の碑

 大正3年(1914)に自宅を時習舎という私塾にして、高等小学校を終えた少年たちに勉学の場を提供していた広瀬の林信太郎の顕彰碑。白浜の恩田仰岳のもとで漢学を学び、上京して東京日日新聞の記者をしたあと、帰京して塾を開き四書五経や英語・数学・習字などを教えていた。門人の少年たちは家業の農業を手伝いながら二年間の教育を受けた。昭和21年(1946)に信太郎が没した頃に閉校。碑の裏には200人の子弟の名がある。

腰越(こしごえ)エリア

(7) 御嶽(みたけ)神社

 江戸時代に名主を務めた飯田家がこの地へ土着したとき、延命院の鬼門除けとして祀ったのが始まりと伝えられている。社殿左側に摂社として熊野権現が祀られているが、そのむかしは府中の台地区に近い上ノ台(クマンダイともいう)というところにあり、腰越のもとの鎮守だったといわれている。境内には中世五輪塔の宝珠や笠石がみられる。手水石は嘉永2年(1849)と文久元年(1861)に若者中が奉納したもの。ここから南に向かっての直線道はむかし祭りで競馬をしたところだといい、付近をバンバダイ(馬場台)という。

(8)  滝川用水と箱橋

 箱橋の下に滝川堰があるが、これは正徳年間(1711~1712)におきた万石騒動の頃、北条藩主屋代氏の用人(側近)として権勢をふるった川井藤左衛門がつくった用水堰と伝えられている。藤左衛門は広瀬から府中方面へ流れていた山名川の流れを滝川に付け替え、滝川堰から用水路を浚渫して国分郵便局裏の堰まで引き、国分や高井・上野原・長須賀の水田の灌漑にあてた。用水は川井堀とよばれ、上流の滝川沿いに築いた土手は川井土手という。また腰越の田の排水路となる小川(こがわ)や、堰上の遊水地「袋」、用水から溢れる余水を滝川に落とす「ハヤブテ」もつくって用水整備をおこなっている。その後滝川堰の水門が箱枠の構造になったことから、近くに橋をかけると箱橋の名で呼ばれるようになったという。

(9) 鎌田淵(かまたぶち)

 天文の内乱最終決戦の際、里見義豊の家臣鎌田孫六が敗色濃厚となった義豊を介錯したあと、敵を二人抱えて滝川の澱みに飛び込み道連れに自害したという伝説がある。そこを鎌田淵という。場所についてはここのほかに、少し下流で川が北進をはじめる滝川地区の澱みとする説もある。

(10) 延命院

 御嶽山延命院といい、真言宗。御嶽神社との関係が窺われる。本尊の地蔵菩薩像は安房国百八箇所地蔵尊巡礼の百八番札所になっている。また安房郡札観音巡礼の十番札所だった円塔院の観音菩薩像も祀っている。境内には天保7年(1836)の手水石のほか、72貫・40貫・20貫の力石が並べられている。力石はほかの村で持ち上げ勝負をして勝って持ってきたものだと古老が伝えている。墓地には岩の露頭があり五輪塔の浮彫りをともなう中世のやぐらがある。また関東大震災での腰越地区被害を記録した震災記念碑、寛政8年(1796)の出羽三山碑などがある。

(11) 円塔院跡

 真言宗の寺があったところ。墓地に比較的大きな中世の五輪塔があり、戦国時代の「天文」という年号が刻まれている。ほかにも五輪塔の宝珠や水輪の石がある。また天保5年(1834)に没した龍斎義山了哲處士の墓がある。庄司龍斎といい、腰越生まれ。江戸へ出て幕府同心となって陽明学や医学を学び、帰郷後は医師兼儒者として白子(南房総市)で塾を開き100人の弟子に教授した。息子の容徳は江戸で一橋家に仕えている。墓は門人や江戸の友人たちによって一周忌に建てられたものである。享年61歳。


監修 館山市立博物館
作図:愛沢彰子

国分・滝川

館野は奈良時代に国司の館があった野原という意味。古代から続く歴史をのせた砂丘上の国分から滝川周辺をあるいてみましょう。

国分寺エリア

(1) 国分寺

 真言宗の寺院。奈良時代に聖武天皇が全国においた国分寺のひとつ。安房の国分寺は全国より少し遅れて創られたようだが、発掘調査で金堂の跡(棒杭が立っているところ)が確認されている(県指定史跡)。境内にはその当時の礎石や南北朝時代の立派な五輪塔があるほか、嘉永3年(1850)に建てられた孝子家主(やかぬし)の記念碑、江戸時代の北条藩領万石騒動の犠牲となった三義民の供養塔(市指定史跡)、明治時代の教育家細川潤次郎撰文で明治43年(1910)の二百回忌に建てた安房郡三名主碑、万石騒動二五〇年忌供養塔、三義民のひとり国分村名主飯田長次郎の墓がある。そのほかにも文化6年(1809)・文政10年(1827)の出羽三山碑、寛政3年(1791)の廻国供養塔、明治33年(1900)に27才で没した国分の教員相川直治君之碑などがある。堂内には寛政2年(1790)の孝子伴直家主図の絵馬もある。

(2) 諏訪神社

 国分地区の鎮守。八幡・天満・八坂・妙見を合祀している。境内には館野村の日露戦争記念碑がある。

(3) 橋本地蔵尊

 外房と内房を結ぶ街道の辻にあたるところで、滝川用水堀を渡る橋のたもとの地蔵尊。寛政10年(1798)に日本廻国行者が建てた道標があり、「東 きよすみ・南 こくぶんじ/南 一の宮・西 やわた」とある。ほかにも明治24年(1891)の孝子塚への案内標、大正14年(1925)に国分青年団が建てた三義民刑場跡への案内標がある。

萱野エリア

(4) 三義民刑場跡

 正徳元年(1711)に、北条藩屋代氏の一万石の領地内で「万石騒動」とよばれる一揆がおきた。首謀者とみなされた湊村・薗村・国分村の3人の名主は、国分村のはずれにあった萱野のこの地で処刑されてしまう。大正14年(1925)に三義民殉難之跡という石碑が建てられた。北条にいた伯爵万里小路通房の揮毫(市指定史跡)。

(5) 稲荷神社・長尾藩武家屋敷跡

 国分の萱野という地域は、明治元年から4年(1871)まで館山周辺を支配した大名、長尾藩本多氏の家臣たちの屋敷地として開発されたところ。当時の屋敷の区画がそのまま残っている。その一画に本多氏の氏神である稲荷神社が祀られていて、明治9年の手洗石は旧藩士たちが奉納している。藩役所など主要施設のあった陣屋は北条の鶴ケ谷にあった。

(6) 孝子塚

 平安時代の初め、承和元年(836)に、安房郡の伴直家主(とものあたい やかぬし)という人が、朝廷から親孝行を表彰されたことがある。江戸時代になって石工の武田石翁が、その墓を見つけだし記念碑を建てて顕彰したのがこの場所。嘉永3年(1850)のことだった。大正3年(1914)に千葉県名勝旧蹟保存既定によって修復されて、現在の整備された姿になった(市指定史跡)。

滝川エリア

(7) 滝川のビャクシン

 木幡神社の御神木で、樹齢800年(市指定天然記念物)。木幡神社の旧社地にあたる。高さは10mくらいだが、目の高さの幹周りは4m以上ある。

(8) 三善寺

 浄土宗の寺院。本堂前に中世の五輪塔の一部分の石がある。鎌倉時代の木造如来座像と南北朝時代の銅造観音・勢至菩薩立像も伝えられているが、ともに今は市立博物館で保管している。

(9) 滝川用水

 万石騒動の原因をつくった北条藩の用人川井藤左衛門が、藩の財政再建のために米の増産をめざして、滝川の箱橋のところから用水堀をつくり、国分の西側の水田域を潅漑した。途中に滝川への水落としのためのハヤブテや、水を分配するための国分の新井堰(今は水がなく堰跡になっている)がある。ハヤブテが国道と交差するところには、かつて石橋が架かっていたようで、道の端に文政5年(1822)の石橋供養塔がある。

(10) 石切山

 江戸時代から明治の初めまで、近在の屋敷や物置の基礎石がこの山から切り出されていた。滝川石と呼ばれ、滝川地区には石屋が2軒あったという。昭和22年(1947)に第四中学校(当時は館野中)の校舎をつくったときに切り出したのが最後になった。

(11) 木幡神社

 滝川地区の鎮守で、9月の八幡のマチに神輿が出祭することで知られている。大化の改新以前に役人として派遣されてきた阿波国造(あわのくにのみやつこ=地方官)の大伴氏がこの辺に館を構えたとき、氏神を祀ったのがこの神社の起こりだとされている。

(12) 立石・天王様

 立石{たていし}は、鎌倉時代の伝説的な武将で、朝夷郡に育った朝比奈三郎義秀が投げたものだという伝承がある。天王様は旧滝川村の名主家の守り神だったそうだ。牛頭天王のほか金刀比羅・子大権現も祀られている。今は木幡神社の氏子もお参りしている。

(13) 地蔵堂

 本尊の木造地蔵菩薩像は文明13年(1481)に作られたもので、半跏思惟(はんかしい)という珍しい姿をしている。御詠歌の額は千倉の彫刻師後藤義光の弟子で、国分在住の後藤義信の作。境内には江戸時代に建てられた鉄丸石の大きな出羽三山碑と、慶応2年(1867)の三山碑がある。墓地には旧滝川村の名主角田太郎兵衛の記念碑があり、これは明治17年(1884)に建てられている。


監修 館山市立博物館

山本・安布里

丘陵部には古代遺跡が広がり、平野部には中世に鎌倉鶴岡八幡宮の荘園があった歴史深い土地。頼朝や里見氏の伝説も残す地域に暮した人々の歴史を歩きながら探訪してみよう。

山本(やまもと)エリア

(1) 小野様

 中央の角柱の墓が小野様と呼ばれ、飢饉(ききん)のときに幕府の米蔵を開放して村人を救ったという領主の善政と遺徳を偲んで建てられた供養塔と伝えられている。文政8年(1825)に村人たちによって建てられたもので、領主は小野日向守一吉(ひゅうがのかみくによし)・安芸守近義(あきのかみちかのり)父子である。日向守は御家人から勘定奉行にまで出世した有能な財務官僚で、不正にも厳しく対処した人として知られている。右側の地蔵尊は天保7年(1836)に名主小原善兵衛をはじめ村中で建てた念仏供養塔で、長須賀の石工(いしく)鈴木伊三郎の作品。この前で8月17日に小野様の念仏供養が行われる。

(2) 堂の下の出羽三山碑と廻国塔

 ここは堂の下と呼ばれ、出羽三山碑や廻国供養塔が建ち並ぶ。廻国塔は日本全国の有名寺社に法華経を納めて回った記念碑で、享保14年(1729)に地元山本の山岸八左衛門が建てたものと谷貝久右衛門が建てたもの、翌年鈴木茂右衛門が建てたものがある。出羽三山碑は安永2年(1773)・同8年、寛政2年(1790)、文化13年(1816)に建立されたものがあるが、台石には別の年号を刻んだものがある。

(3) 御嶽(みたけ)神社

 日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る。中段の社名碑は地元の山岸某が山岡鉄舟に書いてもらった文字を大正元年(1912)に建立したもの。手水石は文化9年(1812)のもの、階段横の土留めは昭和50年(1975)の伊勢参拝記念になっている。社殿前の手水石は汽船事業をおこした地元の小原謹一郎が明治18年(1885)に奉納したもので、四隅に亀の彫刻がある。狛犬は寛政12年(1800)に小原善兵衛・井上五兵衛ほか22名が奉納したもので、石工は元名(鋸南町)の大野常五郎。本殿に施された彫刻は木目を活かした作で、千倉の彫刻師後藤義光の師匠で江戸後藤派の三次郎恒俊の作品。

(4) 山本堰と弁才天

 山本堰は明治初年頃に築かれ、山本の42ヘクタールの水田を潤している。平成14年(2002)から改修工事が行われ、平成17年に親水施設として整備された。御嶽神社の崖下には水の神である弁才天が祀られ、昭和3年(1928)の社殿再建記の碑がある。

(5) 折目台(おりめだい)のいぼ地蔵

 文政10年(1827)や天保6年(1835)の馬頭観音が並び、かつて古茂口へ山越えした道に沿って、享保14年(1729)に村の念仏講中が建立した地蔵尊が祀られている。いぼ地蔵と呼ばれ、線香の灰をぬるといぼが取れるという信仰がある。地蔵尊の右隣の如意輪観音像は享保17年(1732)の十九夜念仏塔で、女性が集まって念仏を唱える十九夜講で建立した。開眼導師はともに金乗院の證恵(しょうえ)とある。

(6) 瀧音院(りゅうおんいん)

 真言宗のお寺で、本尊は不動明王。龍音院とも書く。館野・九重地区の六地蔵めぐりの第6番。本堂の左手に江戸小泉町の多田某という六十六部の墓がある。六十六部は日本中を廻国しながら寺社に納経巡礼する人のことで、巡礼していた途中だったのだろう、元文3年(1738)の暮れ12月26日に亡くなっている。また防空訓練指導をした館山監視哨(かんししょう)長で、昭和18年(1943)に殉職した井上秀雄(36歳)の墓がある。

(7) 鞍懸様(くらかけさま)

 山本の登鎧(とがい)台という集落にある。伊豆から安房へ逃れた源頼朝が鎧(よろい)姿のままここの丘に登ったという伝説を伝える地である。このとき馬の鞍を松に懸けて休んだことから、ここに頼朝が「鞍懸大神(おおかみ)」として祀られた。古い碑は明治29年(1896)に地元の山口治助が建立、新しい碑は平成14年(2002)のもので、鞍懸様を祀る8軒の講中(こうちゅう)で建立した。この8軒によって毎年2月7日に「鞍懸様」という祭りが行われる。

(10) 金乗院(こんじょういん)

 真言宗のお寺で御嵩山(みたけさん)金乗院といい、本尊は不動明王。明応4年(1495)の創建で、里見氏から寺領4石を与えられていた。境内には「高木氏族譜碑之銘」と題された記念碑がある。地元の旧家高木一族の系譜を刻んだもので、安政3年(1856)建立。書家として知られる元勘定奉行の戸川安清(やすすみ)の書である。向拝の龍の彫刻は後藤義光の師後藤三次郎恒俊の作で、嘉永4年(1851)の作。墓地の入口にある六地蔵は享保3年(1718)の建立で、念仏講による。

(11) 山本城跡

 戦国時代の城跡で、山頂に土塁をともなう郭(くるわ)があり、館野小学校裏あたりの尾根には幅広の空堀(からぼり)がみられる。山頂には八幡神が祀られている。南側の山すそには「堀の内」という呼び名がある。龍淵寺の開基里見中務大輔や慶長期の山本村領主だった里見家家老の山本清七などと関係する城かもしれない。

(12) 龍淵寺(りゅうえんじ)

 曹洞宗で霊嶺(れいれい)山龍淵寺といい、本尊は釈迦如来。霊巌山(れいがん)ともいう。大永1年(1521)に里見中務大輔(なかつかさのたいふ)氏家が創建したとされ、江戸時代には徳川家から寺領3石を与えられた。墓地に享保18年(1733)の十九夜念仏塔があるほか、幕末から明治期の安房を代表する文化人森岡半圭(はんけい)の墓がある。門前の地蔵尊は延享元年(1744)に鎌田六郎右衛門が寄進、六地蔵は寛延4年(1751)のもの。

(13) 秋葉神社

 火伏(ひぶ)せの神として知られる遠州気田(けた)(静岡県浜松市)の秋葉神をお祀りしたもので、大きな石宮がある。天保年間に火災が多発したことから秋葉様へお参りして分けてもらってきたのだと伝えられている。2月11日に祭りが行われる。

(14) 要害(ようがい)

 峯台と呼ばれる新しい住宅がある高台は、要害とも呼ばれており、かつて狼煙(のろし)をあげた場所であったという。険しい場所をさす要害という呼び名は、戦国時代の城跡によく残されている。

安布里(あぶり)エリア

(8) 八坂山神社

 大網の山神社が火災にあったことから、明治44年(1911)に安布里の八坂神社と合祀されて、名前も合成された。八坂神社は江戸時代までは修験僧の三上氏が管理しており、その墓地が参道途中に残されている。社殿への石段は安政5年(1858)に半右衛門が願主として整備したもので、手水石は文久元年(1861)に若者中によって奉納された。拝殿の礎石に獅子の彫刻があり、明治41年(1908)に二代目石直と呼ばれた村の石工秋山千太(24歳)が彫刻寄進したとある。社殿左手にある石宮は火伏(ひぶ)せの古峯(こみね)神社で、明治15年(1882)に渡辺半右衛門が願主となって建立した。

(9) 源慶院(げんけいいん)

 曹洞宗のお寺で、安布里山(もとは安龍山)源慶院といい、本尊は延命地蔵菩薩。安房国108地蔵尊参りのうち104番札所である。山門に「南総里見家姫ゆかりの寺」とあるのは、天正元年(1573)に里見義弘(よしひろ)の娘佐与姫(さよひめ)によって創建されたことをいう。里見氏からは25石余りの寺領が与えられていた。佐与姫は天正7年(1579)に没し、その墓が住職の墓地にある。また団扇(うちわ)作りを房州に伝えたという元美濃国(みののくに)(岐阜県)岩村藩士林栄之助の墓や、幕末に海岸警備に来た武州忍(おし)藩士(埼玉県行田市)の家族の墓や旧長尾藩士小池氏先祖の供養塔もある。


監修 館山市立博物館

安布里・大網・南条

館山平野で館山湾にいちばん近い山すそに開かれた土地。鏡ケ浦を見渡す安布里・大網・南条に刻まれた歴史を歩いてみよう。

安布里(あぶり)エリア

(1) 刀匠の碑

 刀匠石井昭房の記念碑。自宅前に平成5年1月建立された。昭房は日本刀鍛錬技術保持者として、昭和37年(1962)に千葉県の無形文化財に指定され、昭和初期に日本刀鍛錬の伝統技術保存のために開設された「日本刀鍛錬伝習所」を、昭和42年に引き継いで安布里に開設した。相伝備前(そうでんびぜん)の鍛法(たんほう)を研究し、各種展覧会で文部大臣賞や総理大臣賞など数々の褒章に輝いている。平成5年(1993)10月没、84歳。碑文には「人は刀を鍛え、刀は人の心を磨く」とあり、日本刀に対する真摯な気持ちを表現している。

(2) 天神山

 安布里の下台(しもだい)で祀る天神様がある岩山を天神山といい、道に面して地蔵尊や青面金剛(しょうめんこんごう)の庚申塔が祀られている。山に接してかつての自警団の小屋があり、青年団が使用した48貫目の力石が埋めてある。山の上には自警団が使った半鐘がある。これは大網大巌院の常念仏堂にあった鐘で、元禄13年(1700)のもの。昭和17年(1942)の戦時中に金属供出からまぬがれるため、安布里の自警団が使用していた半鐘を供出し、代わりにこの鐘を自警団で使用することになって残された。

(3) 蓮幸寺

 日蓮宗のお寺で、興光山蓮幸寺という。墓地の入口に中世の五輪塔の笠石、宝篋印塔の笠石がある。また寛永7年(1630)・10年・13年・19年など江戸時代はじめの宝篋印塔があり、里見氏家臣の田山左衛門介正常の墓と伝えられているものがある。門前には館山の大正・昭和期の俳人斎藤光雲の句碑がある。また日蓮宗の守護神を祀る七面大天女堂の周辺には、古墳時代の横穴墓が5基確認できる。

大網(おおあみ)エリア

(4) 舎那院(しゃないん)の大仏

 真言宗のお寺。本堂より高いところにお大日様と呼ばれる磨崖(まがい)の大仏がある。室町時代以前のものとされ、市の指定文化財になっている。凝灰質砂岩の崖面に掘りだされた大日如来の像の高さは196cm、幅150cmで、館山湾を見下ろすようにある。ほかに安永7年(1778)の日本廻国塔、安永9年の出羽三山碑、文化2年(1805)の二万遍書写記念の光明真言塔などがある。

(5) 大網砲台跡

 太平洋戦争中に海軍が大日山に防空砲台を築き、4門の高射砲などがおかれていた、いまも凹地や塹壕(ざんごう)などが残されている。周辺には弾薬や食料などの物資貯蔵用の洞窟が掘られ、なかには壕の正面に山の斜面を切り残して、出入口を見えにくくしたものもある。また南条へ下る途中に、終戦まぎわに疎開してきた洲ノ埼海軍航空隊の主計科(会計課)の建物が残っている。

(6) 力石(ちからいし)

 大網集会所ちかくの道端に、力石がふたつ置かれている。右の石は「三十八〆目 大網」、左の石は「奉納 四十八〆目」と刻まれている。38貫目は142.5kg、48貫目は180kgのこと。石碑には「四十八貫石 ふん担いだよ 俺がむらのこのわかもの」とあり、かつて村の若い衆が、力比べをしていた石だということを伝えている。

(7) 大巌院

 浄土宗のお寺で、仏法山大網寺大巌院というのが正式の名前。慶長8年(1603)に安房国主の里見義康が、浄土宗の高僧雄誉霊巌(おうよ れいがん)を招いて創建した。山門を入って左手ある玄武岩製の石柱は四面石塔と呼ばれ、四面にある水向けとともに、県の指定文化財になっている。元和10年(1624)3月に霊巌が建てたもので、四面には「南無阿弥陀仏」の文字が、和風の漢字・インドの梵字(ぼんじ)・中国の篆字(てんじ)・朝鮮のハングルの4ヶ国語で書かれていいる。秀吉による朝鮮侵略後の民族和解と世界平和を表現する石塔と評価されている。本堂前の石灯籠は江戸初期の古いもので、左が元和10年2月、右が翌年の寛永2年(1625)10月。最下部の礎石はともに本体より古い作りである。霊巌の墓も江戸初期のふるい様式で、市の指定文化財である。霊巌ゆかりの寺宝として、寺号扁額・浄土宗法度・大位牌など多数伝えられているほか、慶長12年(1607)作の霊巌の木像が祀られている。その他にも稲村城跡出土の板碑(元応元年=1319)や奈良時代の十二因縁論など、市の指定文化財が数多くある。

南条(なんじょう)エリア

(8) 日枝神社(下真倉)

 下真倉の鎮守で、むかしは山王権現と呼ばれていた。社殿のなかには万里小路通房が明治30年(1897)に書いた「本宮」の額、大正4年(1915)の鏡ケ浦図の絵馬などがある。境内には文政10年(1827)の手水石、大正14年(1925)建立の震災記念碑などがある。関東大震災での下真倉の被害は、105戸のうち79戸が全壊、13戸が半壊で、死亡4人、負傷者9人だった。社殿裏の海抜約28mほどのところには海食洞窟がある。8月1日の例祭では羯鼓舞(かっこまい)が奉納されている。

(9) 観音寺

 真言宗のお寺で、南養山観音寺という。門柱にわたされたモダンなガス灯が珍しい。境内に入ってすぐ左手にある石造の地蔵尊は、高村光雲の弟子で館山楠見の石彫家俵光石の作品。明治33年(1900)の作で、台座に地獄極楽の図が刻まれている。手水石は文政12年(1829)のもの。記念碑は石渡省吾という南条出身の教育者のもので、題字は県知事立田清辰、撰文は中村時中で、昭和14年(1939)の建立。省吾は県内や岡山県などで教壇にたったあと、大正4年に海発(和田町)で私塾自彊学舎(じきょうがくしゃ)を開いて子弟の教育にあたった人物。のちに塾は大網の大巌院に移転している。また墓地には、大正12年の大地震供養のための地蔵尊が建てられている。

(10) 浅間(せんげん)様

 山頂に明治8年(1875)に奉納した富士講「山三」の石宮、ほか4基の石宮が祀られてる。並んで明治11年(1878)に講中で建立した安房百八浅間のうちの第百七番の石碑がある。南条の富士講による富士登山などの活動は、大正末頃まで行なわれていたという。山への入口には、文政10年(1827)の出羽三山碑、宝暦8年(1758)の青面金剛庚申塔、明治22年(1889)の光明真言六百万遍供養塔、同年奉納の不動明王像などがある。

(11) 姫塚

 里見家の天文の内乱(1534)で里見義豊が里見義堯に敗れたとき、義豊の正室である一渓妙周も自害し、乳母によって父の居城鳥山城(南条城)の近くに葬られたという伝説がある。姫塚はその女性の塚だといわれ、かつてそこに正室の菩提を弔うための一渓寺があったという。移転して古茂口の福生寺になったといい、福生寺にはその女性の墓と伝わる大きな五輪塔がある。姫塚は直径1m、高さ80cmほどの石積みにだけである。


監修 館山市立博物館

豊房地区出野尾・岡田

祭祀遺跡や洞穴遺跡などの古代の信仰の場や、鎌倉文化と強く結びついた中世の密教道場小網寺、そして近代の不動尊信仰の行場など、長く人々の信仰の場となってきた村の歴史を歩いてみよう。

出野尾(いでのお)エリア

(1) 出野尾貝塚(洞穴遺跡)

 標高約25mにある海食洞穴で、縄文時代の貝塚と古墳時代の人骨・土器片が確認されている。入り口幅約4m、奥行き約7m。昭和29年に発掘調査が行われ、上層から古墳時代の須恵器・土師器、下層から貝塚と縄文土器が出ている。市内の他の洞穴遺跡とほぼ同じ高さにある。

(2) 下の堂

 石造の地蔵尊を祀る地蔵堂になっている。裏山は中世の経塚だったところで、青銅製の経筒が出土したことがある。階段下左側に安置される弘法大師像は、文政7年(1824)に西国坂東秩父の百観音と四国八十八か所の巡礼を記念して建てられたもの。やや左には文政3年(1820)の出羽三山碑と、天保7年(1836)に長門国萩(山口県萩市)出身の廻国巡礼の行者が同行4人と建てた日本廻国供養塔がある。

(3) 弘法谷(こうぼうやつ)やぐら

 墓地を抜けて坂を下りていくと、南北朝時代の2基のやぐらが並んでいる。一方には2基の五輪塔が浮き彫りにされ、一方には2基の五輪塔が据え置かれている。右のやぐらには、文政11年(1828)に出野尾・岡田の人々が奉納した弘法大師像が祀られている。弘法谷は弘法大師が修行をしたとの伝説がある場所で、法華谷(ほっけやつ)ともいわれている。

(4) 小網寺

 真言宗のお寺で、金剛山小網寺という。安房国札観音の三十二番札所で聖観音菩薩が観音堂に祀られている。観音像は平安時代の作で、市の指定文化財。観音堂前にある銅造の地蔵菩薩像は安永2年(1773)の作。本尊は不動明王で、かつては真言密教の道場だった。鐘楼にかかる梵鐘は鎌倉時代の弘安9年(1286)の作で、国の重要文化財。製作者の物部国光は当時一流の鋳物師で、彼の作品はすべて重文か国宝になっている。鎌倉時代の密教法具21点も伝わり、県の指定文化財になっている。法具は金沢称名寺を建てた審海上人の持ち物で、小網寺が鎌倉時代に真言律宗系寺院として重要な役割をもっていたことを考えさせる。本堂向拝周辺の彫刻は明治25年(1892)後藤義光の作。参道には宝暦3年(1753)の念仏講男女衆中奉納の地蔵尊がある。裏山の奥は小網坂遺跡と呼ばれ、古墳時代の祭祀土器などが出土している。

(5) 十二社神社

 かつては十二社権現と呼ばれた熊野系の神社。鳥居と石段は大正6年(1917)、手洗石は明治5年(1872)の奉納。境内には青面金剛像を刻んだ庚申塔がある。念仏修行仲間15人によって延享4年(1747)に建てられたもの。また一山講中によって明治時代に建てられた石宮もある。

(6) 十三騎塚

 里見氏の館山落城にまつわる伝説が残る場所。慶長19年(1614)9月9日に里見氏が徳川幕府によって館山を追われると、その4日後の9月13日、家臣13人が近くの三ツ山で無念の自害をし、館山城が見えるこの場所に葬られたと伝えられている。小さな塚が山の上にいくつかあったが今は藪となって行くことができないため、少し下がった入り口に供養の場所がつくられている。

(7) お大日

 文化9年(1812)と天保5年(1834)の出羽三山碑2基と地蔵尊2体、11基もの馬頭観音がならんでいる。馬頭観音はゴミ処理場がある山にあったが、開発によってここに移動してきた。両手を結んだ大日如来の石像があることから、地元ではここをお大日と呼んできた。大日如来は出羽三山を象徴する仏で、後列右端の6文字の梵字が刻まれた延享4年(1747)の塔も大日如来を表したものである。

岡田(おかだ)エリア

(8) 前不動

 石造の不動尊像と文化3年(1806)の馬頭観音像、文化5年の地蔵尊像が祀られている。地蔵尊には往来安全を願う文字があり、万人講中によって建てられている。ここにはかつて館山と神余・白浜や、館山と神戸地区の佐野・安房神社方面とを結ぶ街道があった。安房神社の神輿が八幡の祭りにかよった道でもあり、安房神社往還とも呼ばれた。前不動とはその街道から風早不動尊への入り口に安置された不動のことで、もとは少し北側に残る旧道から不動へ下りる分かれ道にあったが、道の付け替えによって現在地に移動した。

(9) 風早(かざはや)不動尊

 江戸時代から近隣の信仰を集めていた不動様で、小さな滝が行場であった。大正頃には二階建ての行屋があった。滝の近くに、宝剣にクリカラ竜が巻きついた形の倶利伽羅竜王(くりからりゅうおう)の石塔がある。不動明王を現したものである。狭い境内には数多くの奉納物があり信仰の強さを物語っている。紫桂楼(ともしび)と書かれた石灯篭は文政7年(1824)に竹原村の医師篠塚周伯が奉納したもので、石鳥居は明治23年(1890)、手水石は嘉永7年(1854)、不動尊の石額は文政4年(1821)の奉納物。本堂向拝の龍彫刻は千倉の後藤義光の作で、明治25年(1892)のもの。堂内には祈願の絵馬がたくさん奉納されている。倶利伽羅竜王の隣には弘化4年(1847)の出羽三山碑がある。

(10) 八幡神社

 元和4年(1618)9月15日の創立と伝えられる。手水石は嘉永4年(1851)の奉納。階段下に大正の震災記念碑と道路記念碑がある。岡田の谷奥から大戸へ出る道路は、明治36年(1903)に白土業者の負担でつくられた。明治から昭和初期は岡田の谷奥でも白土が盛んに掘り出されており、房州砂と呼ばれて館山の特産物であった。クレンザーなどの研磨剤、歯磨き粉や精米用に使われていた。

(11) 西光寺跡墓地

 かつて法輪山西光寺という真言宗の寺があり不動明王を本尊にしていたが、大正9年(1920)に火災で焼失し、震災後の大正13年(1924)に小網寺と合併した。墓地に、大日如来を載せた享和2年(1802)の光明真言百万遍塔、某年の廻国六十六部納経供養塔がある。


監修 館山市立博物館
作図:愛沢彰子

大戸・長田

古代に開発された肥沃な大戸。中世に鎌倉円覚寺の所領だった長田。ありふれた風景の中の、固有の歴史を歩いてみましょう。

大戸エリア

(16) 岩崎の馬頭観音(岡田)

 大戸との境に姿のよい丸彫りの馬頭観音がある。怖い顔をしているが、邪悪なものを踏み砕いて人々を救うためである。頭上に馬の顔を載せているのが特徴で、そのため農耕馬や運送馬が普及した江戸時代には、馬の供養のために馬頭観音塔が造られた。この辺は岡田地区の牛馬が葬られた場所だという。路傍に数多くある石塔だが、塔の正面に馬頭観音の文字や姿を彫る例が多い。

(17) 庚申塚

 江戸時代に民間に広がった庚申信仰で、大戸の人々がつくった塚。一年に6回くる庚申の日に、講の仲間が集まって祭神の青面金剛や猿田彦を祀る。石塔だけを建てるケースが多く、塚はまれ。大戸の塚は江戸時代の絵図面にも描かれている。

(1) 白幡神社

 白幡神社というのは、鎌倉鶴岡八幡宮の末社で源頼朝を祀る白旗社を勧請したもの。祭神は本来なら頼朝なのだが、鶴岡八幡宮の祭神の応神天皇を白幡神社の祭神にしていることが多い。この地域の鎌倉御家人が鎌倉から分けてきたのだろう。向拝の龍は明治19年(1886)のもので、千倉の彫刻師後藤義光の弟子四天王のひとり北条の後藤庄三郎忠明の作。

(2) 大円寺

 浄土宗のお寺。江戸時代はじめ頃の寛永元年(1624)の創建で、それ以前は禅宗の寺だったという。境内には勝海舟が題字を書いた記念碑がある(明治12年=1879建立)。館山藩の侍医山下玄門の子で、江戸で医師を開業した山下玄寿のもの。また東京で漢籍・哲学を学び明治31年(1898)に20歳で没した佐野東海の碑もある。こちらの題字は仏教哲学者で東洋大学創始者の井上円了。

東長田エリア

(3) 福寿院と熊野横穴群

 無量山福寿院は真言宗のお寺。境内に念仏講で建てた元禄8年(1695)の如意輪観音像がある。寺の裏山から東にかけての南斜面には古墳時代の横穴群が37基もある。

(4) 腰廻の地蔵

 この地蔵が祀られている祠に、室町時代の石塔を代表する五輪塔の一部、宝珠の部分がふたつある。

(5) 天王様

 天王様は牛頭天王(ごずてんのう)といって、京都の八坂神社の分かれ。厄除けや疫病除けに祀られる神。江戸時代に勧請されたと伝えられ、寛延3年(1750)に村中の安全を願ってお宮が再建された。参道の途中には安永8年(1779)の出羽三山碑がある。

(6) 阿弥陀堂

 豊房村初代村長の安西甚右衛門の墓がある。入口には天保2年(1831)の馬頭観音がある。

(7) 谷(やつ)遺跡

 弥生時代の土器も出るが、神まつりが行なわれた古墳時代の祭祀遺跡として知られている。明治32年(1899)に発見され、日本で最初に祭祀遺跡として紹介された遺跡。まつり用の粗製の土器のほかに土製の勾玉や丸玉などが出ている。

(8) 山宮(やまみや)神社

 山の神を祀っている神社。9月の八幡のマチに神輿が出祭することで知られている。境内に文化7年(1810)の手水石がある。江戸時代は里見氏や徳川将軍家から10石の社領を与えられていて、社家も2軒あった。谷遺跡からさらに奥へ1km。

西長田エリア

(9) 架橋記念碑

 東長田の郷津川と西長田の川崎川の合流するところに、明治25年(1892)に田中橋が架けられた。その由来が記されている。

(10) 観音院

 杉本山と呼ばれる。国札三十四観音の三十三番札所。本尊と前立の観音様は平安時代の仏像で、境内の墓地には室町時代の五輪塔や宝篋印塔の笠などがあり、古いお寺であることがわかる。観音堂向拝の彫物は後藤義光の作品で、龍は明治28年、飛天は明治34年のもの。寺号額は文化年間、下野国出流観音(満願寺)の浩然の書。享保15年(1730)の御詠歌額、天保4年(1833)の石灯籠、巡礼講・念仏講・光明講で建てた享和2年(1802)の光明真言塔(宝篋印塔)などがある。

(11) 富士行者碑

 西長田の富士講先達善行瀧我こと田中瀧右衛門の修業記念碑がある。江戸末から明治にかけては富士山への信仰が広まり、各地で多くの行者が現れた。善行は富士登山三十三回と富士五湖や有名湖で水行を行なう八湖修業を達成。明治33年(1900)に没して、同42年にこの碑が建てられた。善行の記念碑は富士山麓(富士吉田市)にもある(明治17年建立)。並んであるのは、出羽三山碑。文化8年(1811)の備前国(岡山県)の行者の廻国塔。大正3年の馬頭観音。

(12) 千田城跡・千田遺跡

 県道沿いに北へのびる尾根は千田遺跡といい、平坦な山上からは黒曜石や縄文土器、古墳時代の土師器が出る。またここは戦国時代の城跡でもあり、館山湾まで見通す位置である。丘陵を東西に横切る切通しや諏訪神社へ上がる切割の道は空堀の役目をもっている。里見義豊の弟長田義房の居城だといわれ、城ノ内や城ノ腰・堀ノ内・的場などの城郭関連地名がある。

(13) 諏訪神社

 信州の諏訪大社を分けたもの。江戸初期の元和4年(1618)の創建と伝えられる。千田城跡の一画にある。

(14) 千田やぐら

 武士や僧侶の墓として鎌倉に普及した「やぐら」は、鎌倉文化と房総文化を結ぶ遺跡である。西長田や隣接する出野尾は鎌倉文化の影響がみられる地域で、やぐらもいくつか分布する。切通しの西側にある小さなやぐらの中には一石でつくった宝篋印塔が2基ある。千田城跡の西側民家の裏にも室町時代のやぐらがあり、五輪塔が4基並ぶものと、宝篋印塔と五輪塔が混在して5基並ぶものとふたつある。ともにやぐらの天井部分は崩れている。

(15) 三山碑群(岡田)

 岡田・出野尾・西長田の境にあるホウボウ山の裾に出羽三山碑4基がある。文化9年(1812)・文政3年(1820)などの登山記念碑である。並んで岡田の行者吉五郎が西国・坂東・秩父の百観音霊場の巡拝記念に建てた、文政3年の百観音巡拝塔もある。


監修 館山市立博物館