
展示図録No.14
企画展
鏡ヶ浦をめぐる歴史
発行 平成14年2月9日
館山市立博物館
〒294-0036 館山市館山351-2
TEL.0470(23)5212
鎌倉文化を伝える「やぐら」
(館山市腰越 延命院)
展示図録No.14
企画展
鏡ヶ浦をめぐる歴史
発行 平成14年2月9日
館山市立博物館
〒294-0036 館山市館山351-2
TEL.0470(23)5212
鎌倉文化を伝える「やぐら」
(館山市腰越 延命院)
今回の企画展開催および図録作成にあたり、多くの皆様より多大なご協力をいただきました。ここにご芳名を記し、そのご好意に対して感謝の意を表します。
秋山喜代子・浅井志保子・石川良泰・石川良和・岩崎文江・岩本耕一・粕谷よし子・金木幹人・川名芳男・小泉勝俊・酒井昌義・笹生浩樹・嶋田美智子・嶋村元宏・鈴木拓男・高橋克・竹中すみえ・田代正満・柘植信行・富永 悟・原 雅文・福原 和・堀口角三・正木高明・森田竹松・安池尋幸・矢矧幸一郎・行縄文雄
小網寺・品川神社・下真倉日枝神社・洲崎神社・総持院・鶴谷八幡宮・那古寺・船越鉈切神社・神奈川県立歴史博物館・鋸南町歴史民俗資料館・国立公文書館・館山市図書館・千葉県立安房博物館・東京国立博物館
資料名 | 年代 | 所蔵者 | |
---|---|---|---|
1. | 関東八ヶ国絵図 | 館山市立博物館 | |
2. | 館山湾沿岸絵図 | 享保6年(1721)写 | 館山市館山・嶋田美智子 |
3. | 房州鏡浦略図 | 明治22年(1889) | 館山市立博物館 |
4. | 絵はがき「房州鏡ヶ浦湾ノ全景」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
5. | 絵はがき「(安房名所)鏡ヶ浦全景」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
6. | 小林清親画「日本名勝図会 房州鏡ヶ浦」 | 明治30年(1897) | 館山市立博物館 |
7~9. | 原野水画「大房山」「舟方山」「那古山」 | 富山町平久里下・原雅文 | |
10. | 谷文晁作『漂客奇賞図』(「房州館山」) | 寛政2年(1790) | 館山市立博物館 |
11. | 絵はがき「房州船形海岸ヨリ大房ヲ望ム」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
12. | 絵はがき「安房名勝鏡ヶ浦船形海岸の景」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
13. | 絵はがき「安房船形崖観音全景」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
14. | 絵はがき「那古観音遠景」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
15. | 絵はがき「(安房名所)湊川の朝景色」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
16. | 絵はがき「安房北条絶景 八幡より海岸を望む」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
17. | 絵はがき「(安房名所)鏡ヶ浦全景 其一」 | 館山市立博物館 | |
18. | 絵はがき「安房北条海岸之景」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
19. | 絵はがき「富士見橋全景」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
20. | 絵はがき「安房名勝汐入川口より富士見橋を望む」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
21. | 絵はがき「安房名勝北条町六軒より島原を望む | 館山市八幡・金木幹人 | |
22. | 絵はがき「館山北条町城山(里見城趾)」 | 館山市立博物館 | |
23. | 絵はがき「房州館山公園ヨリ高島ヲ望ム」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
24. | 絵はがき「安房鏡ヶ浦の夕陽」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
25. | 絵はがき「安房名勝鏡ヶ浦鷹の島水産講習所」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
26. | 絵はがき「(安房名所)館山町宮城川」 | 館山市館山・秋山喜代子 | |
27. | 絵はがき「(安房名所)塩見海岸鉈切岩」 | 館山市立博物館 | |
28. | 絵はがき「成蹊学園房州名郷浦水泳場 其一」 | 館山市立博物館 | |
29. | 絵はがき「(安房名所)西岬村坂田海岸」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
30. | 絵はがき「安房洲ノ崎神社ヨリ海岸ヲ望ム」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
31. | 絵はがき「房州館山大賀岬」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
32. | 絵はがき「房州西岬村塩見臥龍松」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
33. | 『房陽奇聞』(「安房国鏡浦八景之図」) | 明治22年(1889) | 館山市立博物館 |
34. | 池田弘斎画「大賀ビリドの鼻」 | 館山市長須賀・矢矧幸一郎 | |
35. | 『館山紀行』(「潮見臥龍松」) | 明治24年(1891) | 館山市館山・堀口角三 |
資料名 | 年代 | 所蔵者 | |
---|---|---|---|
36. | 那古村那古寺境論裁許絵図 | 寛文12年(1672) | 館山市那古・那古寺 |
37. | 柏崎浦絵図 | 国分寺市・竹中すみえ | |
38. | 五万分一地形図「北条」 | 明治36年(1903) | 館山市立博物館 |
39. | 五万分一地形図「館山」 | 昭和4年(1929) | 館山市立博物館 |
40. | 五万分一地形図「館山」 | 昭和19年(1944) | 館山市立博物館 |
41. | 絵はがき「館山湾鷹の島全景」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
42. | 館山市空中写真集成図 | 昭和31年(1956) | 館山市立博物館 |
資料名 | 年代 | 所蔵者 | |
---|---|---|---|
43. | 『日本書紀』 | 国立公文書館 | |
44. | 萱野遺跡出土三ツ鱗紋瓦 | 館山市立博物館 | |
45. | 鏡ケ浦図絵馬 | 大正4年(1915) | 館山市下真倉・日枝神社 |
46. | 国司神社御神影 | 館山市沼・行縄文雄 | |
47. | 房州図 | 天保2年(1831) | 館山市立博物館 |
48. | 房州高之島湊普請助力帳 | 天保2年(1831) | 館山市立博物館 |
49. | 高之島湊普請関係文書 | 館山市立博物館 | |
50. | 里見家朱印状写 | 天正20年(1592) | 館山市八幡・鶴谷八幡宮 |
51. | 磯崎湊普請関係文書 | 安政2年(1855) | 館山市船形・正木高明 |
52. | 押送船模型 | 千葉県立安房博物館 | |
53. | 勝山調画「押送船の図」 | 館山市立博物館 | |
54. | 幕府御城米御用船印・大山祇大明神船旗 | 館山市館山・浅井志保子 | |
55. | 廻船業関係文書 | 館山市館山・浅井志保子 | |
56. | 船形村押送船議定連印帳 | 安政6年(1859) | 館山市船形・正木高明 |
57. | 北条海岸房州砂積込写真 | 大正12年(1923) | 館山市立博物館 |
58. | 『千葉県要覧』(「館山港」) | 大正11年(1922) | 館山市立博物館 |
59. | 絵はがき「房州北条海岸桟橋ノ景」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
60. | 館山桟橋写真 | 館山市館山・川名芳男 | |
61. | 絵はがき「東京湾汽船株式会社 新造船 橘丸」 | 昭和10年(1935) | 館山市八幡・金木幹人 |
62. | 北条線全通記念絵はがき「湊川橋梁」 | 大正8年(1919) | 館山市八幡・金木幹人 |
63. | 絵はがき「安房北条駅」 | 館山市立博物館 | |
64. | 東京付近パノラマ地図(「北条線」) | 大正11年(1922) | 館山市立博物館 |
65. | フラワーライン開通式写真 | 昭和41年(1966) | 館山市立博物館 |
資料名 | 年代 | 所蔵者 | |
---|---|---|---|
66. | 絵馬「鏡ヶ浦図」 | 明治9年(1876) | 館山市那古・那古寺 |
67. | 補陀洛山那古寺本尊千手観音縁起 | 享保10年(1725) | 館山市那古・那古寺 |
68. | 観音札所結願奉納額 | 正徳3年(1713) | 館山市那古・那古寺 |
69. | 坂東三十三番安房国補陀洛山那古寺境内図面 | 館山市立博物館 | |
70. | 絵はがき「安房名勝鉈切神社」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
71. | 鰐口 | 元禄10年(1697) | 館山市浜田・船越鉈切神社 |
72. | 独木舟 | 館山市浜田・船越鉈切神社 | |
73. | 絵はがき「(安房名所)北条町八幡神社」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
74. | 洲崎神社御神影 | 館山市洲崎・洲崎神社 | |
75. | 房州安房郡洲崎大明神縁起 | 万治2年(1659) | 館山市洲崎・洲崎神社 |
76. | 洲崎大明神縁起 | 館山市洲崎・洲崎神社 | |
77. | 洲崎大明神由緒旧記 | 宝暦3年(1753) | 館山市洲崎・洲崎神社 |
78. | 『吾妻鏡』 | 国立公文書館 | |
79. | 絵はがき「安房洲ノ崎神社一ノ鳥居」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
80. | 品川神社御神影 | 品川区北品川・品川神社 | |
81. | 『江戸名所図会』 | 国立公文書館 | |
82. | 神奈川台石崎楼上十五景一望之図 | 安政5年(1585) | 神奈川県立歴史博物館 |
83. | 相州西浦賀村図 | 館山市立博物館 |
資料名 | 年代 | 所蔵者 | |
---|---|---|---|
84. | 鉈切洞穴遺跡出土遺物 (釣針・ヤス・銛・土器片錘・魚骨・貝類) |
縄文時代 | 千葉県立安房博物館 |
85. | 加賀名遺跡出土土師器 | 古墳時代 | 館山市立博物館 |
86. | 勝山調画「さんま網の図」 | 館山市立博物館 | |
87. | 勝山調画「ながしつりつりため生写の図」 | 文化6年(1809) | 館山市立博物館 |
88. | 絵はがき「(安房名勝)鏡ヶ浦那古海岸の景」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
89. | 絵はがき「館山公園下ノ海岸」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
90. | 鏡ヶ浦鯨漁写真 | 館山市沼・行縄文雄 | |
91. | 絵はがき「安房名勝鏡が浦海岸鯨漁」 | 館山市立博物館 | |
92. | 絵はがき「安房名勝鏡ヶ浦地曳漁の光景」 | 館山市八幡・金木幹人 | |
93. | 絵はがき「北条海岸煮干製造ノ光景」 | 館山市立博物館 | |
94. | 密教法具(羯磨台・五鈷鈴・五鈷杵・金剛盤・独鈷杵・羯磨) | 鎌倉時代 | 館山市出野尾・小網寺 |
95. | 城山下出土遺物(白磁四耳壷・褐釉柏葉文瓶子・常滑壺・片口鉢) | 13~14世紀 | 東京国立博物館 |
96. | 那古村那古寺境論返答書 | 寛文11年(1671) | 館山市那古・那古寺 |
97. | 諸国参詣道中日記 | 天保15年(1844) | 和田町和田・粕谷よし子 |
98. | 伊勢参宮道中日記 | 明治42年(1908年) | 館山市立博物館 |
99. | 『房州雑詠』 | 弘化5年(1848) | 館山市立博物館 |
100. | 『房州漫遊』 | 明治22年(1889) | 館山市図書館 |
資料名 | 年代 | 所蔵者 | |
---|---|---|---|
101. | 北下台出土遺物(須恵器広口壷・土師器鉢・碧玉管玉・瑪瑙勾玉・銅釧) | 古墳時代 | 東京国立博物館 |
102. | 大寺山洞穴遺跡出土遺物(短甲片・鉄鏃・直刀・須恵器) | 古墳時代 | 館山市沼・総持院 |
103. | 大寺山洞穴遺跡出土舟形木棺 | 古墳時代 | 館山市立博物館 |
104. | 安房国分寺跡出土遺物(平瓦・軒丸瓦・三彩獣脚) | 奈良時代 | 館山市立博物館 |
105. | 里見義頼書状 | 天正年間 | 館山市立博物館 |
106. | 里見義頼朱印状 | 天正12年(1584) | 横浜市中区・岩崎文江 |
107. | 里見忠義法度 | 慶長11年(1606) | 横浜市中区・岩崎文江 |
108. | 船形陣屋普請関係文書 | 慶応2年(1866) | 館山市船形・正木高明 |
109. | 館山藩主稲葉正己肖像写真 | 館山市立博物館 | |
110. | 正徳年中屋代騒動記 | 館山市立博物館 | |
111. | 『日本博覧図千葉県後編』 (「千葉県安房平朝夷長狭郡役所」) |
明治29年(1896) | 館山市立博物館 |
112. | 武蔵忍藩安房北条陣屋図 | 弘化4年(1847) | 鋸南町下佐久間・富永悟 |
113. | 神国伏夷武徳安民御固泰平鑑 | 文久2年(1862) | 館山市立博物館 |
114. | 『近海見分之図』(「安房郡北条村陣営図」) | 嘉永3年(1850) | 神奈川県立歴史博物館 |
115. | 大房御台場図 | 館山市立博物館 | |
116. | 『砲台縮図絵巻』(「洲崎御台場図」) | 安政4年(1857) | 館山市立博物館 |
117. | 館山海軍航空隊絵葉書 | 館山市立博物館 |
西暦 | 年号 | 主な出来事 | |
---|---|---|---|
400年 | このころ、大寺山洞穴に、海人の有力者が埋葬される(600年代まで利用) | ||
718年 | 養老2年 | 安房国が成立し、平久里川流域に国府がおかれる | |
1099年 | 康和1年 | 安房国司の源親元が柏崎から船で都へ帰る | |
1180年 | 治承4年 | 9 | 源頼朝が洲崎神社へ参詣し、神田を寄進する |
1286年 | 弘安9年 | 9 | 鎌倉の名工が小網寺の梵鐘をつくる このころ、滝川沿いの萱野に、北条得宗家ゆかりの寺がつくられる |
1456年 | 康正2年 | 里見義実が滝川流域の稲村城を拠点に活動する | |
文明頃 | 大田道灌が江戸城近くの神田に洲崎明神を勧請する。品川・神奈川にも祀られる | ||
1486年 | 文明18年 | 京都から道興准后が那古寺を訪れる | |
1564年 | 永禄7年 | 北条水軍の船が新井の島(高の島)に船を乗り付けて、館山平野を攻撃する | |
1584年 | 天正12年 | 4 | 商人の岩崎与次右衛門が、里見義頼から沼に屋敷を与えられて、高の島湊で流通活動を始める |
1591年 | 天正19年 | 里見義康が館山城に移転してくる | |
1592年 | 天正20年 | 8 | 鶴谷八幡宮の祭礼で、船形の湊から祭礼用の船などが運ばれる |
1601年 | 慶長6年 | 4 | 里見義康が館山城下に市を立てて、本格的に城下町建設をはじめ、商人の船は新井浦へ入船することを義務づける |
1606年 | 慶長11年 | 7 | 長須賀・北条にも商人が住み、城下町が拡大する |
1614年 | 慶長19年 | 9 | 里見忠義、館山藩を改易される |
1615年 | 元和1年 | 4 | 新井・楠見の船乗り30人が、大坂夏の陣に使役される |
1638年 | 寛永15年 | 2 | 屋代氏が北条の陣屋で1万石の支配をはじめる |
1697年 | 元禄10年 | 5 | 紀州栖原村の鯛網漁師芦内佐平次らが、船越鉈切神社へ鰐口を奉納する |
1703年 | 元禄16年 | 11 | 大地震がおこり、那古から館山にかけて200m~400m幅の干潟ができる 柏崎から高の島へ向けて造られていた土手が崩れ、隆起によって高の島南に浅瀬ができる ◎地震前は土手際に大船を掛けていたという |
1721年 | 享保6年 | 1 | 浦賀に番所が設置され、江戸への渡海船が検査を受けるようになるが、鮮魚輸送の押送船は例外とされる このころ、館山上町に仙台藩の廻米改め役所がおかれ、柏崎の南部屋が盛岡藩の船宿として廻船の世話をする |
1725年 | 享保10年 | 10 | 水野氏が北条藩主になる |
1781年 | 天明1年 | 9 | 稲葉氏が館山藩主になり、のち館山陣屋を設置する |
1793年 | 寛政5年 | このころの高の島湊は、浜から400m~1kmの場所に諸国の廻船が停泊し、地元の渡海船は40mほど沖に停泊し、主に西の浜から艀船がでた | |
1801年 | 享和1年 | 7 | 伊能忠敬が鏡が浦の海岸を測量する |
1810年 | 文化7年 | 2 | 奥州白河藩が波左間に海防の陣屋を設置し、洲崎に砲台を築く |
1828年 | 文政11年 | 11 | 柏崎と館山の人々によって、高の島までの船掛り土手(長362m)の再建が計画される |
1832年 | 天保3年 | 12 | 高の島湊再建工事がはじまるが、中途で挫折したようである |
1841年 | 天保12年 | 館山楠見浦の有田屋が廻船業に乗り出し、越後新発田藩との取引をはじめる | |
1847年 | 弘化4年 | 8 | 武蔵忍藩が海防の陣屋を北条鶴ヶ谷に築き、湊川(平久里川)河口にはじめて湊橋を架ける |
1855年 | 安政2年 | 船形村の磯崎に堤防(長55m)を建設 | |
1864年 | 元治1年 | 10 | 若年寄の平岡氏が船形藩主になり、陣屋を築きはじめる |
1868年 | 明治1年 | 8 | 旧幕府海軍の榎本武揚が館山湾で兵力を整え、軍艦八隻で函館に向かう |
1873年 | 明治6年 | 船形の堤防(長85m)を再建 | |
1878年 | 明治11年 | 館山の辰野安五郎が安全社をおこし、東京(霊巖島)と館山間に汽船を就航させる ◎のち船形・那古・北条・館山に汽船の発着の桟橋が設置される | |
1881年 | 明治14年 | 第一回安房共立汽船会社が設立され、安全社との競争をはじめる | |
1888年 | 明治21年 | 大倉喜八郎・渋沢栄一など財界人が株主になり、豊津村に日本水産会社を設立 | |
1889年 | 明治22年 | 11 | 東京湾汽船会社(現東海汽船株式会社)が館山航路に進出 ◎魚荷が多く、創業当初のドル箱航路だった |
1897年 | 明治30年 | 4 | 安房四郡が安房郡となり、北条に安房郡役所がおかれる |
7 | 館山税関監視署が西の浜にできる | ||
1898年 | 明治31年 | 房総遠洋漁業株式会社が館山町に設立される 第一高等学校(東京大学)水泳部が八幡海岸で水練をはじめる ◎以後、海水浴が盛んになる |
|
1899年 | 明治32年 | 6 | 皇太子が観閲して、海軍が常備艦隊の演習をおこなう |
1901年 | 明治34年 | 7 | 館山湾に四五百頭のクジラが回遊し、捕獲される |
1907年 | 明治40年 | 東京湾汽船で急行便の夏季航路を開始 | |
1909年 | 明治42年 | 3 | 高の島に農商務省水産講習所館山実習所高の島実験場を開設 |
12 | 柏崎青年団が水難救済会を創立 | ||
1917年 | 大正6年 | 4 | 北下台に正木灯が灯る(昭和26年年廃止) |
1918年 | 大正7年 | 8 | 那古船形駅が開業 |
館山湾桟橋会社創立 | |||
1919年 | 大正8年 | 5 | 安房北条駅(館山駅)までの鉄道が開通 |
12 | 洲崎灯台が点火 | ||
1920年 | 大正9年 | 12 | 館山湾内の網主等が高の島に魚付林を植樹 |
1922年 | 大正11年 | 4 | 県立安房水産学校(安房水産高校)が開校 |
1923年 | 大正12年 | 1 | 館山桟橋の拡幅工事(長226m、幅5.5m)完了 |
館山湾桟橋会社が館山町から桟橋の使用権を得る | |||
9 | 関東大震災で隆起がおこり、桟橋が破損、復旧まで艀舟を利用 | ||
1925年 | 大正14年 | 8 | 船形漁港を改修 |
1926年 | 大正15年 | 東京湾要塞地帯の指定地域になる | |
11 | 旧桟橋の南側に館山桟橋が復旧(長270m、幅5.5m) | ||
1930年 | 昭和5年 | 6 | 宮城沖の干潟に館山海軍航空隊が開設、軍専用港を施設する(東防波堤) |
1932年 | 昭和7年 | 10 | 大房岬と西岬地区に東京湾要塞の砲台が構築される |
1934年 | 昭和9年 | 12 | 東京に竹芝桟橋完成(発着所が霊巖島から竹芝へ) |
1935年 | 昭和10年 | 6 | 大型客船の新造橘丸が、東京・館山間に就航 |
1943年 | 昭和18年 | 6 | 洲ノ崎海軍航空隊が笠名・大賀に開隊する |
1945年 | 昭和20年 | 5 | 那古地区川崎に空襲があり、27人が犠牲になる |
8 | 館山港からアメリカ軍が上陸 | ||
1948年 | 昭和23年 | 7 | 館山港を地方港湾に指定 |
1949年 | 昭和24年 | 6 | 東海汽船が戦争で中断していた館山航路を復活 高の島と沖ノ島が風致公園に指定される |
1950年 | 昭和25年 | 船形港を五か年計画で修築開始 | |
1951年 | 昭和26年 | 7 | 船形港を第3種漁港に指定 |
1952年 | 昭和27年 | 館山港を五か年計画で修築開始(北防波堤新設等) | |
1953年 | 昭和28年 | 9 | 海上警備隊(海上自衛隊)館山航空隊が設立される |
1958年 | 昭和33年 | 8 | 南房総国定公園に指定される |
1961年 | 昭和36年 | 5 | 館山港から船形港間の海岸道路が完成 |
1963年 | 昭和38年 | 10 | 東京湾高速船株式会社、水中翼船バカンス号・ファミリー号を東京・館山間に就航させる |
1967年 | 昭和42年 | 8 | 館山船形漁協が合併により成立 |
12 | 東京湾高速船株式会社、採算がとれずに解散 | ||
1971年 | 昭和46年 | 東海汽船が夏季館山航路打切り | |
1973年 | 昭和48年 | 9 | 若潮国体ヨット競技の会場になる |
1993年 | 平成5年 | 4 | 館山市がビーチ利用促進モデル地区に指定される |
1999年 | 平成11年 | 3 | 館山駅新駅舎開業、西口ができる |
2000年 | 平成12年 | 5 | 館山港が特定地域振興重要港湾に選定される |
明治13年(1880)から昭和7年(1932)までの長期間をかけて、首都東京を防衛するための東京湾要塞の建設が行なわれました。東京湾口に位置する鏡ヶ浦周辺では、大正時代の末から昭和初期にかけて、各種施設が建設されていきました。軍事上の最重要地帯として、東京湾口の西岬地区に洲崎第一砲台(昭和7年)・洲崎第二砲台(昭和2年)、大房岬にも砲台(昭和7年)がおかれ、首都防衛の第一線部隊として館山海軍航空隊(昭和5年)、訓練施設としての洲ノ崎海軍航空隊(昭和18年)、館山海軍砲術学校(昭和16年)が開設されていきました。館山には軍人があふれるようになり、軍都とよばれるようにもなりました。太平洋戦争末期には本土決戦に備えて、有人特攻ロケット「桜花」・水上特攻艇「震洋」・水中特攻艇「海竜」の基地や海軍航空隊の地下要塞もつくられ、敵軍の上陸に備えて7万人の兵が安房地方に配置されました。アメリカ軍は房総半島への上陸作戦も視野に入れた本土決戦も計画していました。市内にはいまも数多くの地下要塞や関係施設が残されています。
117.館山海軍航空隊 本部庁舎
偵察機
赤山地下要塞(館山市宮城)
掩体壕(館山市宮城)
128.高地抵抗拠点「戦闘指揮所」(館山市大賀) 昭和19年(1944)
最初の海防施設が鏡ヶ浦にできたのは、文化7年(1810)に奥州白河藩の松平定信が房総の海岸警備を命じられたときでした。富津市の竹岡と千倉町の白子、そして鏡ヶ浦の波左間に陣屋を設置し、洲崎に台場が築かれました。その後天保13年(1842)に担当が武蔵忍(おし)藩に移ると、大房にも大規模な台場が築かれ、弘化4年(1847)に北条の鶴ヶ谷に陣屋を移転して、北条海岸にも大砲を据えました。館山藩でも高の島に砲台を設置したと伝えられています。嘉永6年(1853)に岡山藩の担当に替わり、安政5年(1858)に日米修好通商条約によって警備が縮小されるまで続きました。
112.武蔵忍藩安房北条陣屋図
弘化4年(1847)
幕末の東京湾警備
114.安房郡北条村陣営図(『近海見分之図』)
嘉永3年(1850) 神奈川県立歴史博物館蔵
115.大房御台場図
116.洲崎御台場図(『砲台縮図絵巻』) 安政4年(1857)
江戸時代後期の異国船出現による海岸警備強化と昭和初期の軍備増強のなかで、東京湾の入口にあたる鏡ヶ浦には、砲台などの軍事施設がつくられ、江戸・東京という首都を防衛する機能が与えられました。これは東京湾玄関口としての、もうひとつの役割でした。
里見氏は鏡ヶ浦周辺で、船形と北条にも城をもっていました。船形城は船形之津をもち、北条城は平久里川河口の「淡水門」を湊につかえる立地でした。
江戸時代になって、里見氏の滅亡後に来た大名たちは、里見氏の城の近くに領地支配の陣屋を設けています。寛永15年(1638)に屋代氏が北条藩1万石の陣屋を設けたのは北条城の跡でした。天明元年(1781)に館山藩をおこした稲葉氏は、館山城の南麓に陣屋をつくりました。幕末の元治元年(1864)に平岡氏が安房で大名になったときに陣屋を置いたのは、街道にも面した船形城の近くでした。陸上と海上の交通の要衝が、江戸時代になってもそのまま利用されたのです。北条の陣屋は明治になって安房郡役所に引き継がれました。
108.船形陣屋普請関係文書 慶応2年(1866)
房総を支配した戦国大名里見氏は、東京湾に面したところに、重要な城をいくつももっていました。それは陸の道と海の道の接点になる湊をおさえる意味でつくられたものでした。
里見氏の初期の居城だった稲村城と、最後の居城になった館山城は、ともに安房を支配するための城でしたが、稲村城は平久里川河口につながり、館山城は高の島湊をかかえる城でした。ともに陸上交通と海上交通との接点をもつ場所にあったのです。
稲村城は国府の機能を引き継ぐ場所に立地していましたが、館山城では流通拠点として高の島湊を開発し、市場としての城下町を新たに建設することで、新しい安房支配の城をつくりました。里見氏の館山城下町づくりは、商船の入港を城下のみに限る強引な政策でしたが、5年で館山から長須賀・北条まで町を拡大し、現在の市街地の核を成立させたのです。
下105の里見義頼書状の天正年間(1580年頃)では、館山城はまだ海の番城でしたが、下の里見忠義の法度がでた慶長11年(1606)には、楠見・新井の館山町から長須賀・北条にも商人が居住するようになっていたのです。館山城下町は湊がつくりだした町でした。
稲村城跡と滝川
105.里見義頼書状 天正年間
107.里見忠義法度 慶長11年(1606)
館山城跡と館山港
安房国は養老2年(718)に上総国から分かれて成立しました。ところが天平13年(741)に上総国へ併合されてしまい、再び分立したのは天平宝字元年(757)でした。そのため国府や国分寺の設置は遅れることになりました。安房国分寺跡は現在の国分寺とほぼ同じ場所で、薬師堂の左に金堂の基壇が確認されています。国府は三芳村の府中にある宝珠院境内のあたりと推定されています。国分寺と同じ砂丘列の上にありますが、そのあいだは滝川で砂丘が切断されています。国府がおかれた頃には平久里川がすぐ近くまで入江状に入り込んでいたと思われます。またその頃には平久里川も国府周辺を乱流していたかもしれません。安房国の役所は、海上交通路とつながる「淡水門」に近い砂丘上につくられたのです。
安房国府跡(三芳村府中 宝珠院)
104.安房国分寺跡出土三彩獣脚
安房国分寺金堂基壇跡(館山市国分 国分寺)
104.平瓦
104.軒丸瓦