古代や中世から地名が確認でき、中世から豪族たちが活動した足跡が残る地域の寺社や道沿いの文化財を訪ねてみましょう。
宝貝(ほうがい)
(1)覚性院(かくしょういん)
真言宗のお寺で、円蔵院(南房総市千倉町)の末寺。本尊は35.4cmの木造地蔵菩薩坐像で江戸時代の作。本堂の中には、安東出身の絵師鈴木寿山による襖絵、天女を書いた絵左右一対、百万遍の数え札が残る。当寺は安房国百八箇所地蔵尊の第六十九番札所、九重・館野地区の地蔵巡りの第四番札所で、元文2年(1737)の御詠歌扁額が残る。境内には、歴代住職の墓、中世の宝篋印塔の笠石、寛政10年(1798)の宝篋印塔、江戸末期の不動明王、関東大震災の復興や昭和20年(1945)の農地法発布の際に農事に尽力した女性の墓がある。境内入口の六地蔵は安政5年(1858)に孫右衛門・庄兵衛らにより奉納。六地蔵の近くに頭部が欠落した安永10年(1781)の石造地蔵菩薩、慶応元年(1865)の高橋元右衛門らによる四百万遍念仏塔がある。墓地から(3)伶人様に上がる途中に享保14年(1729)に井上定右衛門と惣村中による大日様が残る。
(2)覚性院やぐら
覚性院の境内墓地にある南西に開口したやぐら。内部に室町時代末期に作られた嶺岡の蛇紋岩製の阿弥陀如来坐像の他、寛政2年(1790)に宝貝村中によって奉納された6体の地蔵が刻まれた六地蔵や8基の馬頭観音が残る。馬頭観音は文化11年(1814)、天保13年(1842)、嘉永元年(1848)、嘉永4年(1851)、慶応2年(1866)、慶応3年(1867)2基、明治13年(1880)。
(3)伶人様(れいじんさま)
覚性院脇の丘の頂上にある石祠。銘文も年代も記されていないが、地元の人は「れいじんさま」と呼んで祀っている。かつてお寺に他人のものを盗む悪いお坊さんがいたが、あまりに悪事を重ねるので村の人が山奥へ連れて行って生き埋めにした。それ以来、村には悪い風邪が流行して何度も疫病に悩まされるようになったため、お坊さんの祟りと考え祠を作って手厚く供養したところ、疫病がおさまったという。それ以来、宝貝では毎年8月20日を伶人様の日と決め、各家の女性が集まってオコモリをするようになった。
(4)天神様
熊野神社の裏山には、嘉永6年(1853)正月に奉納された天神様(天満宮)が祀られている。かつては1月2日に子どもたちによる天神講が行われ、当番の家々を回った。天神様と金毘羅様の間の手水石は、慶応4年(1868)4月、若者中による奉納。
(5)金毘羅様
(4)天神様から上がったところに、慶応2年(1866)12月に高橋彦右衛門によって奉納された金毘羅様を祀る。
(6)青面金剛像
(5)金毘羅様から上がったところに、享保10年(1725)2月に村講中(庚申講)によって建立された青面金剛像を祀る。
(7)仙元様(浅間様)
熊野神社裏山山頂の石祠「富士仙元宮」は、慶応4年(1868)9月、山三講の講中により建立された。願主は高橋儀右衛門、先達は高橋(久)兵衛、講員は伊藤利八・高橋久左衛門・高橋治良兵衛・松本治左衛門である。
(8)山の神
熊野神社の裏山山頂の石祠は、弘化4年(1847)8月に亀田孫右衛門によって奉納され、かつて木の扉には「山の神」と書かれていた。(7)浅間様と(8)山の神の間にある石祠は、屋根に卍が彫られているが詳細は不明。石祠前の手水石は昭和18年(1943)9月1日に高橋ときによって奉納された。
(9)熊野神社
速玉之男命他二柱を祀る宝貝の鎮守。1月20日頃にオビシャが行われ、五穀豊穣や家内安全を祈る。節分の夜には大火といって厄除けの行事を行い、境内の刈り清めた木を積んで燃やす。明治3年(1870)から昭和50年(1975)の社殿の修復・雨覆葺き替えの棟札や厄除けの梵字が書かれた棟札が残る。社殿前には震災前のものと思われる天水桶が残る。境内には、文化15年(1818)正月に高橋佐五兵衛によって奉納された天王宮(天王様)の石祠や文化14年(1817)9月に若者中によって奉納された手水石が残る。常夜灯は天保9年(1838)、狛犬は昭和13年(1938)5月に本橋寛治・本橋鶴、本殿の彫刻は高橋英二・伊東はま、社号碑は昭和50年(1975)9月に髙橋𠀋志によって奉納された。鳥居は昭和6年(1931)に氏子により建立された。石工は船形の生稲多七。石段は大正5年(1916)12月に氏子により建立された。江戸時代は神社階段下に高札場があり南側に郷倉があった。
(10)道路改修記念碑
館山市と合併する2年前の昭和27年(1952)に九重村が実施した道路改修記念費。同4月に設置された。改修した道路は総長800m、幅員3m80cm、総工費31万円。
安東(あんどう)
(11)日露戦争戦没者碑
日露戦争に出兵し、24才で戦病死した陸軍歩兵一等卒鈴木堯の碑。明治41年(1908)建立。文は『安房志』を編纂した安房中学校教諭の斎藤夏之助、石工は吉田亀石。
(12)安東堰
安東の農業用水。安東堰の突き出たところに立つ銀杏の麓には弁天様が祀られている。
(13)馬頭観音
安東堰近くの墓地内に昭和20年(1945)6月17日の馬頭観音がある。
(14)吾妻大権現
紀州(和歌山県)から熊野権現が各地に分祀される頃に、榎本氏から安東の神主である鈴木氏が布教を依頼され、社殿を建立したと伝えられる。社殿は大正12年(1923)の地震によって半壊したため取り壊されたが、後に鳥居と石宮が作られ鈴木氏と近隣の家々によって毎年正月に祀られてきたという。現在は石宮と手水鉢が残る。
水岡(南台)(みずおか(みなみだい))
(15)日森神社(ひもりじんじゃ)
天照皇大神を祀る南台(南片岡)の鎮守。2月7日(現在は近い土日)にオビシャを行う。社殿に大正6年(1917)の神社名号石板、大正7年(1918)の太鼓、多数の絵馬、花鳥を描いた板絵、地区の人々が作成した神輿が残る。かつては和田の漁船を利用した船型の屋台も作成し、10月10日の祭の際に地区内を引き回したという。社殿前には文久2年(1862)に氏子によって奉納された手水鉢や大正6年10月奉納の狛犬一対がある。狛犬の奉納者は小柴長蔵、書は義(孝)、彫刻は加藤佐兵衛。当社にはお諏訪様(諏訪神社)・弁天様が合祀されているが、境内に石祠3基(中央は宝暦14年(1764)2月)、本殿後に石祠が残る。他に昭和24年に亀田長治によって奉納された出羽三山碑もある。階段途中には、大正6年(1917)3月に施主の秋山桂蔵、石工の長須賀の石勝により建立された鳥居、昭和4年(1929)に建立された地元の俳人・秋山桂山88歳の時の句碑「古池のふかさはしらず鳴蛙」がある。
(16)地蔵堂
南台のお堂で本尊は近世の作と思われる43.3cmの木造地蔵菩薩半跏像。胎内に「善念寺作」の陰刻がある納入仏が入る。また、鎌倉時代に作られた165.5cmの木造地蔵菩薩立像(頭部は南北朝時代)が安置されているが、地蔵の手に底が抜けた袋が掛けられており、安産祈願のために借りてお産が済むと1つ増やして返す風習がある。安房国百八箇所地蔵尊の第七十番札所、九重・館野地区の地蔵巡りの第三番札所であり、元文2年(1737)の御詠歌扁額が残る。8月24日には念仏、2月には百万遍が行われる。堂の前には明治元年(1868)の「ダエ 亀田屋」による手水石、階段横には賽の河原の地蔵像、正徳元年(1711)の廻国供養塔がある。堂右のお釈迦様には、二本松(福島県)出身の若嶋新之丞が再興したと刻まれている。他に室町時代末の十王像頭部も残る。
(17)駒寄通り(こまよせどおり)
千倉の大貫(南房総市)と館山平野を結ぶ旧道。馬を寄せて通るため駒寄通りという。入口に安永6年(1777)11月の村中による三面六臂の馬頭観音と明治15年(1882)3月7日に奉納された馬頭観音がある。尾根の三叉路に文化6年(1806)7月24日に南片岡村の喜右衛門が建立した道標があり、地蔵像の下に「北那古(道)」「南千(倉道)」とある。付近に嘉永3年(1850)9月4日建立の馬頭観音や廻国供養塔が残る。
館山市立博物館(2023.12.9作成)
千葉県館山市館山351-2 TEL 0470-23-5212