江戸の各地におこった富士講は、枝講が別講をたてながら鼠算式に増えていき、関東一円にまで広く普及する。講はそれぞれ「笠印(かさじるし)」とよばれるマークを持ち、講の中の数名が代参にでかけた。また庚申年は富士山の御縁年といい、この時には女人禁制も緩和されたため、特に参拝者も多かったという。富士講流行の様子は錦絵に多く描かれ、風刺画にも使われている。
32 富士山體内巡之図(部分) 足立区立郷土博物館蔵
富士講紋曼荼羅
(船橋市・湯浅章氏蔵)
こちらの軸は江戸深川の山玉講先達禄行が、同じく山玉講の松山清行に与えたもの。ここに記された講の笠印はざっと140にものぼり、これだけ見ても富士講の盛況ぶりがうかがえる。