参考資料:栄行真山自伝

 『富士信心之始メより有難事書置』

 抑富士行者食行身禄●内、北行鏡月●内、三世山元仙行真月●内、四世修山禅行居士内、五世真行妙忡居士内、六世正行真鏡居士内、

 安房国長狭群磯村余瀬町

 七世やまつつみ正栄行真山 俗名松本吉郎兵衛

 是迄難有事拝、色々不思儀事あり、新増を筆ニ而留置、書残しおき候、

 文政七酉年正月二日初夢ニ、廿六歳より講中江入、信心道ヲ覚、廿八歳の正月一日初ニ、左の手ニのせおき、富士山白き所手にのせて、にきると思へは目をさまし、誠ニありかたく拝み奉る也、夫より信心の気まし、

 又書印し、同年四月十一日当村富士山と申て山あり、此山江夜な々一七日籠りニあかり候所、六日目ニ当リ候晩、石宮の前ニ而拝み居候得共、余り居あきて又立而、石宮より三間計り跡へさかり候所、我立者、夜中過ニ茂相成候頃、何方より参り候哉、何者にて候歟、一切訳しれ不申候て、大キサ丑し位、頭墨色ニ而、どう茂右之通り之姿ニ御座候、扨又夫より結願之夜籠に参り、夜明方迄何の事茂なく候得共、天明ほのゝゝとなり候時、我心ニて思ひ独り言ヲ申居、先一七日籠りを致し候所、我行法たらさる故ニ、何の印も無之と思ひ居候所、少々ねむり候哉、気しつまり候とおもへハ、夫より仙元宮の石宮之上、東ヲ向白衣ニ而すわり、女体年の頃六十余り与思ひ、我是こそ仙元菩薩と拝み、誠ニありかたき事々目を開き見れハ、聢与相わかり兼、先結願茂難有事と拝み、悦て下山致候、

 文政七酉年六月一七日ニ廿八才之時、初メ而登山ニ参り、目出度頂上参詣致シ下山仕、御内八湖致夫より帰宅仕候、

 文政十三寅年八月八日より、一七日夜な々こもりに参り候之内、九日の夜当御山江籠り登り候所、右石宮の戸ひらの所江、七八寸計り丸サ程之、色ハそら色ニ而、石宮の戸ひらの前迄御光をさし、我余りの不思儀と思ふニ付、我手を懸て取りて見てもとれす、夫よりうへお見れハ御月様より御光差しており、是を拝み候得者、誠ニありかたく奉存、心魂ニ微少もわするゝ事なく、余りありかたくて泪こほれ申候、

 天保 卯四月、栄行儀のどをはらし、外へ者大キくたんこふのごとくはれ出申候、夫ニ付仙元大菩薩様江講中を頼願上候所、其時四月七日より初メ、内のとこの間前江、三日三夜の心願ニ而、断食心願致居候所、八日より茂初メ相勤、又九日天明々明なる時刻、とこの間の仙元様の懸物の所ニ而、薬の御夢想御さつけあり、其御つけハ、拾座草と言くさをとり、よくせんし、又人はたニ致してのとのはれたる所をよくたてべし、右様ニ致し候得者早速になをるへし、右之通り仙元様の懸物の所より御声あり、夫より夜もあけぬれバ、家内に我申ニ者、今朝程仙元様の掛物之所より、薬の御差図あり、先拾座草与申くさ有之哉と申聞候得者、家内の者共ニ者、成程御座候間、直様拾座草ヲ取ニ遣シ、一にきり程取て参り、夫より早速たで候得者、全快ニ相成、其日の四ツ時分のんとよりのろ出、其日の七ツ時分迄ニ不残全快ニ相なり、又御礼与して、同四月十八日より初メ廿日迄断食仕候、又此時もありかたき事あり、御富士山之東西江御月日様あらわれたると、朝霊夢を蒙り、夫より天保ニ卯六月十八日登山致し、御頂上御八りやう廻り、元祖食行身禄●之室七合五勺江籠り、火物たちニ而籠り居、三日三夜之通夜ニ而、一日ニ一喰勤メ、御頂上三度登り、三日目廿日晩ニ、月様誠ニ御光輝之夢ニ而拝み候所、夢覚て外江出てみれば、夢ニ而拝み候所茂同様ニて、不違所拝み奉り申候、夫より帰村致し信心弥増し候所、十七日夕相勤メ、其夕方七ツ時分ニ右之霊夢を蒙り、有難事々、

 天保十年亥六月登山致し候節、栄行并悴栄治郎、武田直兵衛、鈴木治郎八、ならや嘉兵衛、和泉屋利八、陣や清兵衛、平吉、米吉、坂ノ七治郎、次郎右衛門悴徳太郎、勘吉の内儀、籐七内儀、右之同行の者登山の時、八合目の上ニ而御来光様如此拝み、難有事故印置候也、

 天保十四年卯六月廿一日村を出立致し、同廿五日ニ宿坊江着致し、廿六日登山三十三度大願成就ニ付、目出度富士山小御岳石尊様五合目ニ通夜籠り致し居、其夜明候得者、小御岳の神主様之申ニ者、磯村先達珍ら敷事あり、昨夜は此山江甘露ふり、我甘露と申ハ何様の物ニ候哉と承り候得者、神主申ニ者、扨又甘露と申者、夕への様ニ誠ニ晴天ニ而、よきなぎの時でなくてハふらんと言事、此御宮之うしろへ参りて見てくる様ニと申ニ付、見ニ参り候得者、誠ニありかたく甘露ふり申候、初メて甘露と申者味ひ見る事也、夫より下山之時、田辺近江様より元祖食行身禄●木像一体、三十三度大願成就掛物壱幅、食行身禄●御真筆掛物一ふく、持参致し宅江[ ]、

 天保十五辰二月九日朝、とこの間の前ニ而仙元様江向御勤メ之時、拾本之指之さきより、せいと言物あらわれ、左ニ印通り拾本先江出、せんこうのけむりのごとく出、我も初メて見江候故、色々ニ致し而見ても、指の先江付て引す、夫より毎朝気を付て見れバ、印置通りあらわれ申候、其年我も坂東秩父并外八湖参詣致ス存よりニ候得共、其年ハ色々用事有之ニ付、参詣ニ出兼候故延し申候、

指先のつハ左ニ印通り、

 夫より天保十五年六月、富士登山致し、御頂上ニて御三水金明水の井戸の上ニて、五色の丸輪之中ニ三尊弥陀様のかげうつり、誠ニありかたく拝み申候、我壱人拝み目出度下参仕候、夫より内八湖ニ出立、人数栄行・かじや吉助・大工吉兵衛・湯屋善兵衛・下駄や忠治・天津摂津国屋次男与兵衛、六人ニ而白糸の滝の水江、御来光様同様誠ニ難有拝み奉る故印置く、

 弘化二年巳三月十五日出立致し、坂東秩父札所并富士山外八湖を廻る心持ニ而参詣致ス、上総下総国札所々、夫より鹿島香取大杉所々江参詣致し、夫より谷溝山観世音江参詣致シ、又日光山江参詣致ス、日光町之清七殿を宿ニ取、日光の御祭りを拝み、四月十七日祭り也、夫より十九日ニ中禅寺観世音与御外八湖の内八大龍王を拝、其湖のはたに相応の舟ふせてあり、其舟江腰を掛て摺墨を出、墨をすり、八大龍王を書印と思ふ江、遥向ノ方を見れハ、御出家方御待方供の者共、大勢ニ而御湖へりニ見江候、我思ニ者、我か書よりあの見江る衆ニ御願致し、書貰度思ひ、夫より荷物を仕舞、向に行ハ、向ノ方我方へ参り、幸ひと思ひ、檀那ニ向両手をつき、私儀ハ房州長狭郡磯村与申所之もの、此度坂東秩父札所へ納、并富士山外八湖与申而、日光中禅寺湖・上州榛名湖・信州諏訪の湖・鹿島湖。是を心懸而参詣致者ニ候得共、何卒尊公様の御真筆御願申上度候、我富士登山三十三度大願成就の時、富士吉田口田辺近江様書物貰置候、夫を取御覧ニかけ候得者、御尋ニハ、其方富士山行者かと御尋有之、其答而申上候、行者ニ者無御座候得共、富士信心の真似を致ス者ニ御座候、其方願ニまかせ書てやろうと申て、御侍ニ墨を摺らせ、我向ニ而紙をおさへ、檀那申ニ者、何と書と申候ニ付、八大龍王与御書被下候と願上候所、御聞済ニ相成候、

 左の通り書印、

  南無八大龍王 与御書被下候、

  弘化二巳四月十九日中禅寺以湖水書之

  東叡山大僧正實潤 与名法あり、

 我儀ハ誠歟、夫より早速立て参り、跡ニ残りし待壱人有之、其人ニ承り候所、其方儀者直々ニ致候歟、宜敷外々取次ヲもつて願候共、取次ヲもつて致候ても、取次て者無之候、先者直々ニ願上候歟、よろしく先此上ハ右様の事ハ出来不申候、其時茂甲州湯沢村百姓幸右衛門殿と申仁者、下総国なめ川寺より観世音様ニ而同行与相成、中禅寺も同々致し、所々同行ニ而参詣致、扨又秩父のはんにやと申所、大日様江参詣仕候所、日天より御光ひかりあり、誠ニありかたく存居、左ニ印置候通りニ拝み、ありかたし々

 南無阿ミ陀仏、々、々、心魂微てつし、ありかたし、同行幸右衛門殿与大宮宿ニ而わかれ申候、

 秩父般若之船与申大日様江参詣之時、左ニ印通り、日天様より御光如此さし、誠ニありかたく奉存候、心魂ニてつし恐をなし候、

 秩父之札所打納、夫より上州辺を廻り候節、角行藤仏様の二百廻忌与承り、夫より急キ坂東札所を納メ、夫より甲州郡内上吉田宿坊江着致シ、人穴村善左衛門殿江参り、角行藤仏様の二百廻忌報事を拝み、弘化二年六月三日也、朝白糸の滝江垢離をとりニ参り、其節ハ大勢垢離取ニ参り、御来光拝み、左ニ印シ置也、垢離取ニ入時ハ丸くなり、向の深き所江行ハ、下ノ方せまくなり、左ニ印通り御来光様誠に難有事、泪おこほし、あまり不思き与思ひ、ありかたく故如件印置也、

 夫より角行藤仏の二百廻忌の御報事を仕舞て、四日之日より人穴の籠り所江、一七日断食心願ニ而籠り、五日過六日過七日過八日の日ニなり候所、誠ニ不思儀、空腹ニ相成、誠ニそこへのめる様ニ相なり、夫より我気分しつかに相成ニ付、我前江色黒くして、中勢ニ而白衣着て、四角のぼんのうへ江、御あかより少し赤色さしたる物をのせて持参致、其仁の申ニ者、是ハ角行御恩せいと申者候故、其方へ遣ス、仍而頂クへし、我も又是ハ難有事与存、手ニ取れバ気分しつかりとなり、空腹の所も常の如くの身分ニ相成、誠ニありかたく事心魂微候得者、御利益与奉存候、泪おこほし、御恩情四角なるほんも右ニ印置也、

 夫時ハ一七日心願成就致し、十一日朝善左衛門殿江下り、御世話ニ預り、暫く休み居申候、

 夫より上吉田宿小猿家伊予様江参り、御世話ニ相成登山仕、下山致休居候所江、村方講中衆参詣ニ宿坊江着致し、又々同行の衆与登山、目出度頂上仕、下山致候、其同行の衆与同々致、我女房参詣ニ参り、夫より同行の衆にわかれて、信州善光寺様江参詣致、又身延山江[ ]、又人穴江参詣致し、善左衛門殿江相尋、并ニ白糸の滝江参詣致ス、七月廿二日帰村致ス、

 嘉永七寅七月廿八日内を立、富士山宿坊江着、三十三度の垢離をとり、宿坊之神前ニ籠り心願も相済、夫より駿河の国富士郡上井出村藤屋藤八殿宿ニとり、白糸の滝弐百度心願を初メ、拾九日より初メ左の印、

 廿日五ツ半時の頃より、御来光様誠ニありかたく拝み、初メ垢離ニ入時ハ○如此、又先江行ハ∩如此、誠ニ難有事ありかたき事、三度宛七度垢離をとり、其度御来光様拝み、廿一日白糸滝の上ニ、畑主毎日子供連三人ニ而、畑ヶへ参り候故ニ、其畑主旦那を願、我垢離とりニ参り、揚りて石の上のり、滝に向拝み候時、小木出張てじやまニなる木あり、明日ハきれ物御持参ニ而、あの出張たる木を切被下、価ハ何程ニ而相応ニ払可申ニ付、何卒御頼与申候得者、畑ヶ主も承知致し、明日ハ無相違切遣ス与申居、夫より其日者帰り、又明日廿二日参り候得者、雨天に而畑主も参り不申、我も其雨天故少々垢離とりて宿へ返り申候、又廿三日朝垢離取ニ参り候得者、右畑主旦那并子供弐人居申、扨旦那一昨日御頼申置候切物を御持参被下候哉、聞ハ畑ケ主今日ハ約速之通切物持参致し候、今日同々致し切てあけよふと申而、同々致し参り申候、我ハ垢離取ニ参る与致せハ、○如此御来光拝み、先江行ハ∩如此誠ニ不思儀の事与存、何度取り候ても如此、夫より宿藤八殿江返り、宿を頼み、今晩ハ廿三夜様滝上ニ而御待申度ニ付、まき弐わ、むしろ壱枚御かし被下与申て、右之品かり、白糸の滝の上江籠り、廿三夜様待居、夜半ころ滝ニある石の不動尊、によきりと我前江立、誠ニ恐れ、頭のつもじより足の指の先のつめ迄、つうとつうじ、誠ニ々心魂微恐れ申候、

 廿三日様富士の頂上の真中へあかり、誠ニありかたき々、夫より廿四日明ぬれハ、宿へ返り御札を申、夫ニ付白糸の滝の畑ヶ主の咄を致、昨日ハ上の畑主旦那ニ木を切て貰候、時に私垢離取ニはいり候時、御来光様拝み、其時ニ上ニ居る子供弐人呼ニ参り、三人ニ而御来光様拝み、私揚りて行迄拝み居候ニ仍而、私承り申候、此上ニ畑ケある故ニ、毎日拝むてあろうなと申候得者、其仁申ニ者、私四十余りニ相成候得とも、此度拝む事初メて拝と申居ニ仍而、私其時上り、其方衆も余りおろかの事かな、上ニ畑ケありて初メてとハ、余りなる事と申て、私わらい申候、右之咄致し候得者、宿の藤や藤八殿も申ニ者、私儀も今迄御来光様拝まれ申と言事ハ聞及候得共、私此度迄ハ拝みたる事ハ是なく、今日ハ藤八申ニ者同々致し拝み度と頼むと申ニ付、左様なら者跡より御縁も有ハ拝まれ可申与私申て、先江垢離とりニ参り早速垢離取りニ入候得者、早速ニ御来光様拝み、○誠ニありかたく拝、足元の所者水のそこ迄も光りをなし、誠ニありかたく事泪をこぼし、夫より揚ると藤八殿参り申候、其時我申ニ者藤八様おそかつたり、今初メの時ハ御来光様拝み申候、おしきかな与申、又夫より弐度目取ニ参り候得者、又ありかたく拝み○、其時藤八殿もありかたかつて色々与致し而おかみ、先江行ハ下せまくなり、∩如此ニ夫拝み候て自分の田へ行、此度垢離六度とり、又四度目の垢離の時○如此拝み、五度目三度程拝み、又昼過ニ者○如此、廿四日垢離数五十四度也、夫より宿江返り、宿の亭主申ニ者、今日ハありかたく拝みましたと、以御影ヲありかとう御座りますると、我申ニ者、私拝ませたのてハ御座りませぬ、御まへの御心信ニ仍而拝み申たと答候、藤八申ニ者、私四十歳余り相成り候得とも聞及候計り、是迄拝みたる事ハ無御座候、初メ而此度拝み申与申候、夫より藤八殿母親の申ニ者、我も六十余りニ相成候得共、昔より御咄ニ者承り候得とも、是迄拝みたる事なし、初メての事なり、誠之今日過し、明日者同々致し拝み度申ニ付、我申ニ者、明日御出被成候ても、各々方御心信仍而拝まれ申候、左様ニ候ハヽ明日私ハ先江行、跡より御入来可被成候、御縁も有之ハ拝まれ申候、廿五日朝少し先江行、御内室様跡より御入来可被成与先江行、早速垢離をとりニ入候へ者、拝まれ不申候、又弐度目垢離取ニ入候得とも拝まれ不申候、左様致スと跡より御内室并十五六内の娘・隣り娘内のおはり殿・泊りニ入た廿弐三才商人弐人、都合五人ニ而参り、其時我ことわり申上候、是迄弐度垢離をとりニ入候得とも、御来光拝まれ不申候、又五人衆ハ是非拝み度与申てそこに居、又三度目垢離取ニ入、∩如此拝まれ申候、誠ニ五人衆もありかたく拝み、悦を致し而揚、壱人おはり殿残り、我揚る時又御来光難有拝み候、○如此、夫より五人衆返り、おはり殿壱人弐度拝み、其結願ニ而三十六度垢離ニ而、都合弐百度結申候、心願成就なり、

 夫より郡内吉田へ返り、八月一の岳鈴原大日様ニ而、一七日断食心願籠を相勤メ、夫より吉田宿防江返り、九月中旬ニ坊を立、甲陽辺を廻り、夫より駿河の国参詣致し、伊豆の国を廻り松崎より下田へ行、十月廿九日下田を立、十一月四日伊豆国しゅ善寺へ宿をとり、四日ニ立候所、大地震大つ浪与なり、家もたおれ出火もあり、家々共大方ハつぶれ、夫より駿河国三くり谷の竹の下村へ参り、其時ハまた地震しつまらす、外の畳の上江休居申候、其夜夜明ニ相成段々江戸の方へ参り、十一月十四日帰村致候、房州之方ハ伊豆の国より少しなり、

 万延元庚申六月廿三日登山仕、廿四日下山致ス、又鈴原一の岳ニ而、三日三夜の断食心願成就致ス、宿坊へ下り、七月十一日宿坊を出立、人穴村善左衛門殿江泊り、夫より十二日上井出村藤屋藤八殿江着、雨天ゆへ垢離取に参り、十度取、藤八殿宅江返り、十三日晴天五ツ半ニ参り、しら糸の滝江参り、垢離取ニはいり、早速御来光様拝み、滝の深き所江行ハ下方せまり、又跡江されは丸くなり、又先江行ハほすくなり、色々ニ致し而見るなり、十度ニ付一ツ宛石をあけ、三日ニ而百度心願なり、十四日朝しら糸の滝参ると申せハ、藤八殿子供男子二人十一才九才者二人跡より参り、御滝江参り度ニ付、同々致度与申て参り、御来光様拝み、我垢離とりニ待参候者、早速●、只今の御来光様其子供ニ向ひ拝み候哉、如何有之候哉、尋候得者、十一歳ニ相成候子ハ難有拝み申候、九才子ハ何も心も不知、兄者拝み、仍而ありかたき事心願成就ニ付、数取石を見、中のきれいなる石を持参致したきと思ふて手ニ取見れは、●と言石を取揚、くり返し滝に向はありかたや、

 五色の染もさめぬしら糸、藤八殿宅ニ而はへり夫昼飯を喰、表口村山村和合院与申下防、小さき防江泊り、表口より朝七ツ時ニ出立致、富士登山致シ、十五日頂上致シ、吉田宿坊小猿家江泊り、

 酉六月廿三日朝、吉田小猿家伊予様与申宿防之前江、六十六度大願成就之柱を立、諸々講中の衆を頼、御恩礼之御勤メ并少投もち致候也、

 文久三年亥二月十六日内を立、江戸はし先立東屋新八殿与申人江籠りの咄を致し、夫より郡内吉田小猿家伊予守様江着仕候て、私儀此度心願ニ而参り申候、一七日中の茶屋ニ而御籠を致度願、何卒御世話預り度存候、室主へも御咄被下、中の茶屋之室をかり籠り入、廿日登り候所、一七日積りニ御座候故、三七日心願ニ者御座候得とも、又こもりの一七の願と致し而頼入候て、初メ申候、其内三日目之晩之夢に、十七八才計りニなる娘壱人、四角なるぼんニ御食をもり、其仁申に者、是頂ケト申候得とも、我も食事ならさる事思ふて手ニ取計り、断食心願与申、右様申与目さめ、誠ニ心よくなり、夫より一七日与申て防も頼、并ニ中の茶屋室も其積りニ而かり候故、六日目ニ防より聞ニ参り、夫ニ同々致し而室の内儀参り、防の直兵衛様旦那の代ニ聞なから見舞参り、明日ハ一七日ニ候故、如何致し候てむかゐニ参り候哉と申ニ付、其時申上候ニ者、御尤成事、私申ニ者、一七日与申上候得とも、全ハ三七日心願ニ御座候、若三七日与申候而、不相成趣被申候而者致方なく存、夫故一七日与手かたく申上候、何卒三七日籠りを願度与申候得者、又室主の内儀申出、私義ハ籠り入候内ハ、そは粉ニ而も喰て居与存候故、貸遣シ申候、中々廿一日なそとハもつての外の事与申て、いかりをなし、栄行も誠ニ困り入申候ニ付、宿坊の直兵衛様を引請人ニ、よう々承知為致、籠る様ニ相成申候、心もおち付申候、夫より十四日目ニ少々空腹与おもい候時に、又四角なるほんへめしをもりすかたハ見得すして、此めしを喰とこゑ計り、手ニ取口のそはへよすると思へ者目さめ、空腹之所常の通りニ相成申候、夫より廿一日満願迄ハ常の通りニ御座候、我儀其内何か印を致度と存、防の見舞ニ為持遣シ申候哥に

 箸とるも 月日と富士と君と親  栄行

 御恩のとくをおもいおもへは

            書而御隠居哥致

            し被下様願上候

 籠り居内ニ者、石堂寺観世音と御名法あり拝み、又近江の国石山寺の観世音菩薩と申て御名法りもあり、誠ニありかたく拝み申候、扨廿一日行も満願ニ相なり、三月十三日朝宿坊へ下り、色々御世話預り、十四日晩誠ニ不思儀成事有之、初メハうつ、ニ而、右ニ而むねをなで、又左の手ニ而むねをなで候得者、南無先祖南無阿み陀仏と、むねをなでれハむねより御光出、又右の手ニ而むねをなでれハむねより御光出、初メハ夢うつつニ候得共、後ハ気カ付て目を開キ、右ニてむねを先祖南無阿み陀仏となでれハ、むねよりひつかりとひかりて御光をさし、又左の手ニ而むねをなでれハ、むねより御光輝、何度となく一度なせれ壱ツ出る、何程ニ而もかきりなく、誠ニ不思儀ニ而ありかたく拝、余り不思儀故防へも咄も不致、我登山八十八度大願成就後、瀬戸村先達慶行江見せ、夫より朝夷郡清水屋貞治郎殿江見せ、其家内之者江見せて咄きかせ、我覚計ニ而は余見くるしき事におほへ、当国北条村雲洋画書れ、其御光ひかり輝て何筋きへすあり、

 慶応二年寅六月、一度登山致、又内へ帰候て、七月十四日立、吉田火祭掛て登山致ス、又浦賀迄老人同行送り届ケて、又富士登山参り候、七月廿八日宿坊着致し、夫より廿九日朝早立ニ致し而、壱人ニ而登山致ス、鳥帽子岩元祖食行身禄●之室江参御勤致し、其ころハ室なく不残〆而下り、小御岳神主居御室の神主も〆而下り、一の岳鈴原の神主計り居、最早日もくれ、御馬返しの茶屋もたゝみて下り居候故、一の岳大日様の室ニ而ちようちんをかり、夫より火を付下り候所、凡壱りも下りたると思ふころ、終ニころんてちようちんをけし、雨空なれハ、一切道筋わかり不申候ニ付、誠ニ困り入、今晩者野宿与思定候時ニ、すこしすき居れ者、遥カ下ノ方へ火のあかり見ヘ、夫より私こいをあけ、もうし々と呼、私ハちょうちんをけし誠ニ困り居者、とふそ火を御かし被下と申て呼候得者、段々与私方へ火近くなり、そばへ参りて見れハ廿才計り男ニ、廿四五才計の男二人連なり、只今時分何れ江御出被成候と承候得者、我々ハ富士登山致者与申、我火をけし難渋致居者ニ御座候故に、何卒火を御かし被下候与願、夫より火をかり悦てちようちん江つけ、わかれて下り、五六間もさがり候得者、夫より跡をふり返シテ上を見れ者、何も見得ず、夫より小猿家伊予与申宿坊へ参り、足をあらつてあかり候得者、大雨ふり来り、其時防御隠申ニ者、小御岳様御向ニ参候哉と、不思儀ニおもへ難有事と存居候、

 下り、右同者の衆者、白衣着し杖を持、夫よりわかれて跡を見候ゑ者、火も何も不知、不思儀存候、夫あかりニ而難なく防の小猿家迄下り、少しすきれハ大雨ふり出し、右之咄防江参り、火をかり夫より火も見得すと申候得者、夫は小御岳様より御むかいニ参り候哉と防御父伯様申居候、神て有たか仏て有たかと思居候、誠ニもつて有かたき事と者存居申候、

 慶応三卯七月丗日より誠ニ日照りニて、諸人雨乞計り致居、御寺方村方も色々雨乞致居ニ付、我茂又礒村富士山初メ又者龍こう山、両山江断食心願致居候所、八月朔日雨少々ふり、又二日雨ふり、我此度願之儀者、誠ニ難渋ニ及候ニ仍而、御助為雨をふらせ被下願、此度雨ふらせ被下ハ、五十日之内我一命を差上可申候、仍而早速諸人助の為に、雨をふらせ被下候様、偏ニ神仏江願候所、早速朔日二日雨ふり、夫より二日ニ下り、夫より追々雨ふり、ありかたき事々、夫より又御礼与し而、十一日十二日十三日三日断食心願、我雨ふらせ候ハヽ、五十日の内我一命あけ様とハ申上候得とも、あまり難有故ニ、此度我一命御引取被下候与申、これ者此度取不申候、是より三ヶ年延而遣スト御つけあり、卯年辰年巳年迄の延なり、

 此度富士登山之儀ハ、卯年七月迄ニ八十八度大願成就、夫より明治元年辰九月廿六日ニ、当村富士山江為御礼庚申塔を立、房州上総両国の講中集り、大勢ニ而御遷宮御勤、目出度納申候、

 慶応三年卯六月富士登山致し、六月十七日帰宅致し、其節大日てりニ而皆色々の雨乞ニ付、又我れも心願ヲ込、三十日より当富士山と龍こう山両山心願込、何卒其願儀ハ、三日の内雨ふらせ被下与願上、三日から断食ニ而両山江参詣、籠を致候所、二日惣応之雨ふり、三日の日も仲よりあけ雨ニ而、田畑共大気ニ助り、寺方様百姓之願之儀一通事、扨我儀三日之内雨ふらせ被下候ハヽ、我一命五十日内ニ差上可申与信心掛願上候、右様申候得共、余り難有候故五十日延兼、十七日当富士山江此願度、一命早速御引取被下様ニ、仙元様より御差図、三年延而致ス様ニ御差図有、夫故巳年十一月迄延し、巳年十一月十七日ニ弥々我か一命浅間様江差上、此度廿一日から断食初メ、此度雨乞之御礼ニ上り候所、初メ而晩ニ奥の院の松江龍灯あかり、万騎坂町之上総屋与申魚屋見初、道通の衆も見、難有事与存候、

 又同月十九日、右場所江龍灯御万騎坂町迄さし、立寄の衆拝み、とこ屋せき并米屋源治郎旦那并若者も拝み、難有事、又同廿六日ニあかり、廿九日之晩ニ白髪之大なるせいニ而、老た蓮のくきを持参致し而、此蓮ニ而祝ひを栄行致せ与仰之恋あり、翌極月朔日より初御食ニ蓮備、二日十二膳宛三日迄備、其夜田原のかじや太平治泊りニ参り候ニ付、其刻ニ早速おこし、右之白髪之参り、祝ひ致ス様ニ申付、其侭何れ歟行しれす、夫より是ハ御引取も無之哉と、廿一日之断食も終り、十二月十三日山より下り、宅ニ而養生致し候所、三日目成候日ニ、誠ニむね焼難義致居候所ニ、とこの間富士山の掛物所ニ而、我拵候盃の哥をよめ恋あり候、初め恋ハうつかり致し而、又右之よめ、むね病気治するの仰、夫より難有事与申、

  ○箸とるも月日と富士と君と親

   御恩送りの三十三たひ

  ○日の元の其国々を安かれと

   六十六度登る富士山

   月と日と富士の恵を返すとて

   八十八度登るきたくち

   あひらうんけんそはか

  此哥ニ而むねやける事治る妙也

此盃之仰之通り唱、為あひらうんけん唱候所、早速全快相成難有事、心魂微恐入候、扨又皆々様もむねの焼る時ハ、一心ニ右之哥をよみ、あひらうんけん唱候へ者、治る事ハ妙也、

 明治八年亥八月浅間大神告曰、栄行三十日之内、当山江信心致し而勤へし、其内申渡ス事有之与仰有之、夫当富士山江夜に籠を致居候所、八月廿三日より初、信心致籠致候所、九月十五日晩ニ浅間大神より仰之候、当国ニ浅間宮数ヶ所有、是を是を観世音札所同様ニ取立致し、番号を付、弘通致スへし、宮ニ而右之通り申付られ候、私義しふんふなれ、うたくり有之候、全浅間宮ニ申渡しニ御座候、又一度御しらせニ預り度候、

 十六日ハ無拠事ニ付、又十七日登山致し籠居所、又十五日之通無相違事故、急度守弘通可致候、国中仙間宮を一度参詣致、廻り候得者、駿河の富士山江一度参詣致同様ニ相なり候、其心得方信心者へ伝へて信心可致候、御酒神者宜敷候得共、酒盛者一切ならぬ、宿ハセハ人先達之所貰、喰物ハ持分自分可致候、呉々浅間大神より申渡し有之候、夫より浅間申渡ス仰ニ者、子六月一百八度大願成就致せと仰渡し有之候、夫ニ仍而子六月大願成就標杭を大願成就印、富士馬返し与下浅間様の三り中程、中の茶標杭を、又印与し而吉田村小さき盃江大願成就之哥付、○百八度 成就駿河の富士の山 又登らん与 月日まつなり、申哥を付、宿中江不残宿の人を願、宿中不残申候、

 一、明治十年丑十月、これら申はや面□浦辺多分咄有之、十月十六日の日、上総国興津与申村之仁少々病気ニ付、馬ニ乗万騎坂ひしや清兵衛与申泊りあり、軽く休みかいほう致居候所、覚民与申村出生之者ニ而御廻り役有、此者聞たヽし、これ病ニ而も前原扱所届ケ、いしや者連同々致ス、夫ニかけ夫大勢集り、心巌寺大かねつき、夫より猶々大勢集り、病人を、村はづれニ石子山与申堂あり、其堂つれ行者、村はつれの一同出、堂江者置事ならん与申て払、夫より又前原へこさん与申而、前原浜貝渚村之間ニ大川有、其川江飛込たと申而、人々大さわきを致候、余り手間取致ニ付て歟、一命終り候、十七日夜明ニけり、夫より前原扱所咄出されたる者、凡七十人余与聞、其□□致したる者共も余程ニ付、私義申候ニ者、命終り候者内浦いしや様壱人、大勢替り私壱人罪を持、大勢難すくゑ与存候而、是より明日者廿六日より初、何程村相働之大難小難相成候様、廿七日廿八日三日の間、我宅ニ而大勢集、浅間宮江心願上、三日ニ終り夫叶、栄行申出ニ者、此度願ハ内浦いしや様の命一人ニ而御座候故、私其替り一命差、外御仁難義をのかれるさせ度申候、今の御規そく、其儀ニ而も願通らさる事ニ付、夫心掛致スならば、内ニ而信心致たる方か宜敷与申ニ付、十月廿九日初メ、廿一日断ニ而心願掛、上の浅間宮ニ而致そうと申居候得者、上浅間宮ハ病院江当分かしたと申事、夫ニ而者内の浅間宮ニ而籠致スと、廿一日断食三十日より初メ、二日晩ニ浅間様より大キなる膳ヲ米の分壱ツ、三角膳なり、又粟の膳弐ツ、〆三ツほん上へのせて、すかたハ見得す、浅間様宮の前て是を喰へと仰、粟の膳を被下候、其膳を二ツ貰、うつつニ而喰へは、まゑつからきかつきて、我ハ断食ニて、目覚而見れは夢なり、其明而見れハ、一日夜あければ旧ノ二日、其日川代村川名半平与申仁参り、川代村之講社申ニ者、栄行も冬ニ至而廿一日断ニ而者、一命たもさるニ而、夫ハおしき人候得者、廿一日を軽して、一命をもつ様ニ致し而貰度、講社より頼まれて参たる、半平殿申候、其節申ニ者、御信切之思召ニ候得共、先一七日断過たる其上ニ者、相談も致候故、とも角も一七日ハ十一月六日なり、夫をすこして御入来あれと申、返し候、夫より七日ニ参り、右之段軽く致ス様にと申ニ付、先半平殿ニかたけ、女房まてニかたけ、大浦山田次兵衛内の常次郎ニかたけ、田原かじやおよし二かたけ、川口吉左衛門のせき二かたけ、井戸端の山田吉五郎二かけ、皆壱人ニ而二かたけ、七人ニ候得者十四かたけ也、栄行朝米壱合宛喰、十四朝昼与晩ニ二度之断食なり、

 昨年八月廿三日浅間大神告テ曰、其方栄行江申渡スニ者、三十日之内弥以信心可致与申付有之ニ付、三十日当村浅間宮江夜な●参籠致居候所、廿三日より初メ九月十五日晩ニ申渡しニ者、国中観世音札所有之、依テ国中観世音札所同様ニ、弘通可致与御夢惣ニ付、全ク浅間様の仰ニ御座候ハヽ、又一度夢ニ而も御しらせ可被下候与願上、翌十六日者休、無拠事ニ付、富士講社之事ニ付天津村江参り、夫より十七日帰り、又々当富士山江登り参籠致居候所、前十五之晩ニ申付候通り無相違、依而急度守可申与有之、夫より相談致し、天津村白井重四郎、礒村先達広瀬太平次、川代村半兵衛、右之者同々致し、海辺通り江初而廻り、国中浅間を一度参詣相成与之浅間宮より仰ニ御座候、其思召ニて参詣可致候、以上、

 仰ニ、当村富士山江籠殿、告〔   〕り、地内より堀出シ石尊有之、其尊像洗ひ磨見れハ、富士山の尊像石なり、応永四年五月十八日与切付印有、凡年来を見れハ四百七十余年ニも相成、其内いつのころより歟埋り候哉、不相分事、就中昨年八月廿三日之晩信心致、当村富士山三十日可籠与、其内栄行ニ申渡事有之与仰有、其節九月十五日晩の造に者、栄行、国中ニ浅間宮数多有之、順拝開ケ与仰付候、仍而当礒村之富士山ニ第一番与致し、猶又堀出シたる浅間石尊を、栄行地内江納メ、宮与致し、一百八番祭り奉るなり、

 明治九年      発願主

  子十二月吉日    栄光真山(花押)

           添人 川代村

               半平

(夜な々籠りの時、一七日之内六日の晩ニ、如此の者夜中頃ニ我足元より飛出ト印置候、)

(四月一七日結願の時、夜明方如此女体拝ス)

(御三水の上江、井戸の上ニ而如比御来光様拝、誠ニありかたく事、是より御内八湖廻る)

(栄行・かし屋吉介・湯屋善兵衛・大工吉兵衛・下駄や忠治・天津村津の国や二男与兵衛、同行六人也、)

(此仁、四角なるぼん江、御あかの様なる物ニ候得共、少し赤色ましニ付、年のころ六十余りして、色墨して中勢、にくハたつふりなり)

(垢離取はいれハ丸くなり、向ヘ行ハ如此なり)

(垢離取はいれハ丸くなり、向ヘ行ハ如此なり)