大正12年の関東大地震が起こる以前の柏崎から大賀にかけての海岸。高の島とのあいだの浅瀬は、元禄地震以降徐々に出来上がったもの。「大賀」の文字の上が「ビリドの鼻」。
関東大地震で隆起がおこると、宮城と笠名の中間域を中心に砂浜が広がった。柏崎には大きな砂州がある。干潮時には高の島まで歩いて渡れるほどの浅瀬になった。
地震による隆起で海岸と高の島のあいだに大きな干潟ができた様子がわかる。島影の干潟に乗り上げた船や右端には高の島へ渡る桟橋のようなものも見える。高の島寄りの浅瀬には海苔ひびが並んで立てられている。宮城の海苔づくりは明治15年に始まり、大正年間には県下有数の産地になった。しかしこの隆起でひび立て場が狭くなり、さらに航空隊基地の埋め立てで海苔づくりは終わった。ちなみに高の島は、歴史的には「高の島」と記され、小字も「高ノ島」である。「鷹之島」の表記は文学的に使用された文字が定着したもの。
沖の島が砂州でつながった陸繋島になっている。埋め立てによって陸地が沖の島に近づいたたため、沿岸流によって砂州が発達していった。つながったのは昭和28年頃だという。