日本書紀に「淡水門」という記述があります。「あわのみなと」と読み、平久里川の河口をさすと推定されています。ここが古代の湊として利用されたわけで、北条地区の湊の地名はこの名残だろうといわれています。おそらく古代には、河口が深い入江状の地形だったことでしょう。
この湊は古代において、安房の豪族や南関東の豪族が、天皇に服属する儀式を行った場所と考えられています。ここは古代の大和朝廷が、伊勢・畿内方面から関東へ進出する際の、最初の停泊地になる海上交通上の重要な湊であり、また関東計略のための前進基地にもなり、最前線の香取・鹿島にとっては後背基地にもなる軍事的にも重要な湊でした。
古代では、交通・軍事・政治的な重要性をもつ湊だったわけで、それは安房が半島の先端に位置しているからこそ果たしえた役割だといえます。その後安房国府が河口からすぐ近くの川沿いに設置されたのも、この湊の役割があったからです。そして平久里川が湊からの水路の役割をはたしました。
この湊は中世になっても使われたようです。先年、国府跡と国分寺跡の中間に位置する滝川沿いの萱野遺跡から、北条得宗家にゆかりの鎌倉時代後期の瓦が出土しました。瓦には北条氏の三ツ鱗紋があり、花菱の模様などと組み合わせてありますが、これは鎌倉の鶴岡八幡宮や極楽寺・東長寺・建長寺など、北条得宗家と関係の深い寺院に限定して出土する瓦です。得宗家と深い関係をもつ寺院が近くにあったのです。
北条氏は全国の海上交通路をおさえるように所領をもち、そこでは律宗の教団が活動していました。萱野遺跡の周辺にも北条氏の所領が存在し、滝川を水路として利用していたと考えられます。
また、萱野遺跡から東へ二百メートル離れた滝川という場所には、鎌倉武将の朝比奈三郎義秀が投げたという伝説がある立石(たていし)があります。義秀は建保元年(1213)の鎌倉の和田合戦に敗れて安房へ逃れ、消息を断ちましたが、三浦一族は平安時代の末から安房に進出をしていました。この伝説も、滝川周辺で人や物の行き来が盛んにおこなわれ、三浦半島と安房を結ぶ海上交通路があったことを伝えているのかもしれません。戦国時代に里見氏が稲村城を安房支配の拠点にするのも、こうした背景があったからでしょう。
43.『日本書紀』
国立公文書館蔵
44.萱野遺跡出土の瓦
当館蔵
朝比奈三郎伝説がある滝川の立石