明治13年(1880)から昭和7年(1932)までの長期間をかけて、首都東京を防衛するための東京湾要塞の建設が行なわれました。東京湾口に位置する鏡ヶ浦周辺では、大正時代の末から昭和初期にかけて、各種施設が建設されていきました。軍事上の最重要地帯として、東京湾口の西岬地区に洲崎第一砲台(昭和7年)・洲崎第二砲台(昭和2年)、大房岬にも砲台(昭和7年)がおかれ、首都防衛の第一線部隊として館山海軍航空隊(昭和5年)、訓練施設としての洲ノ崎海軍航空隊(昭和18年)、館山海軍砲術学校(昭和16年)が開設されていきました。館山には軍人があふれるようになり、軍都とよばれるようにもなりました。太平洋戦争末期には本土決戦に備えて、有人特攻ロケット「桜花」・水上特攻艇「震洋」・水中特攻艇「海竜」の基地や海軍航空隊の地下要塞もつくられ、敵軍の上陸に備えて7万人の兵が安房地方に配置されました。アメリカ軍は房総半島への上陸作戦も視野に入れた本土決戦も計画していました。市内にはいまも数多くの地下要塞や関係施設が残されています。
117.館山海軍航空隊 本部庁舎
当館蔵
偵察機
赤山地下要塞(館山市宮城)
掩体壕(館山市宮城)
128高地抵抗拠点「戦闘指揮所」(館山市大賀) 昭和19年(1944)